2011年5月18日水曜日

カメラで撮るなら どっちの虚構を選ぶか それが問題なのだ

 今日はいつもなら間違いなく削除したであろうと思われる、写真を4枚をあえてアップしてみました。
 最近はこの風景を撮っても、パソコンに入れた時点で削除するだろうなと思われるものは最初から撮らないようになっています。なんの躊躇いもなく、気に入らない写真は容赦なく捨ててしまうと先日書きましたが、その自分の選択眼も少し怪しいのではないかと迷う時があります。
 いつもの私なら当然この墓石を避けます。上部のクレーンだけをアップで写して何食わぬ顔をしています。でもその選択が正しいのかどうなのかという部分がわからなくなってくるのです。
 下部に墓石が並び、その上に巨大クレーンがあるから、解釈の仕方でひょっとしたら意図はしなかったけれども結構面白い画像を構成しているのではないかとも思うのであります。

 2枚目の写真は今の私にとってはあってはならない世界なのです。こんなごちゃごちゃ家々が建て込んでいる町などは目にしたくないのです。普段の私であったら、小さく写っている庭木にできるだけ近づいて周囲の建物が画像のなかに入らないように排除しているでしょう。
 でも何気なく自分の意にそぐわないものを排除するというのは、敢て虚構を構築していることにならないかと思うのです。写真は虚構だということに最近ウスウス気がついてきていますから、それでいいのですが、ではどちらの虚構を選択するのかという問題になってくるのです。より現実に近い虚構を選択するのか、クローズアップによってデフォルメされた虚構を選択するかの問題です。
 その答えはたぶんいくら思案してもでないものだと思います。3枚目の左の写真はこれまで好んで撮ってきたような写真です。視点を変えて面白さからみたら、1枚目と3枚目のどちらでしょうか。もちろんこれら全ての写真は芸術性とか技術的なものから大きくかけ離れていることは明白でありますが、1枚目と3枚目どちらを選ぶべきでありましょうか。

 最初はたんにシャッターだけをむやみやたらと押していた、にわかへっぽこカメラマンも、その腕はひとつも向上していなのに余計な迷いだけがでてくるようになってきています。

 町の記録としての写真なのか、ここに行ってきたよという集合写真なのか、写真って様々な意味があるのだとなと、今頃考え込んでいるのであります。

 先日から少しずつですが、これまでの家族写真をデジタル化することを行っています。まだ50枚もその処理を終えていませんが、実に退屈な作業でも何枚も自分の写真に接していますと、気がつくことというか教えられることが多くあります。
 なんだこれはつまらん写真だなと思うのが、他人(ひと)様が撮った集合写真であります。撮ってくれた人には大変申しわけないのですが、まったくくだらん写真ばっかしです。共通しているのはそれぞれに表情がないのです。画一的で約束されたように同じ構図で無味乾燥です。このくだらない集合写真がまた腐るほどあるのです。これはスキャナーでの読み取り作業をしているとぐったりと疲れてしまいます。そこで集合写真はよほど面白くなければ全部排除することにしました。

 もともと私は性格破綻者的なとろこがありますから、滅多なことでは集合写真など撮らないやつなのです。どちらかというと集合写真を撮ろうとしている人間を撮ったり、集合する前の乱れた顔とか撮影後にほっと油断した顔を撮る方が好きなのであります。だから私に集合写真を期待しても無理でありますから。カメラは持っていてもその意味合いが違うのだと思います。ん?何を言いたいのかわからなくなってしまった。いつものことだけど
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