2014年9月16日火曜日

キクちゃんの芋煮会

この物語はキクちゃんの小学校6年生の頃の話です。正確に記しますと昭和38年(1963年)、ちょうどテレビアニメの「鉄腕アトム」の放送が始まったころのことであります。キクちゃんは当時、名前の和博からカズちゃんと呼ばれていました。

「カズちゃん、まじめにリヤカー押してよ!・・・」と、タカちゃんが声をあげた。
「そうよ、そうよ、なんでカズちゃんだけフラフラしてんの・・・」と、ヨウコちゃんも、とんがった声をあげました。
「あたしたちだって、一生懸命に押してんのよ・・・・」と、普段から口数の少ないハルミちゃんまでが口をとがらし始めたのでした。
カズちゃんの通信簿の連絡欄には、よく「おちつきがありません」とか「集中力がありません」などと担任から書かれていましたが、本当は違うのです。興味の対象がありすぎて、面白いと思ったものに知らず知らずに呑み込まれていってしまうのです。
最初は皆と一緒にリヤカーを押していたのですが、田圃道に入ったらそこかしこにイナゴがいるのを見つけてしまい、イナゴ取りに興じてしまっていたのです。イナゴは佃煮にして食べると思いの他おいしいのです。それを採集して家に持って帰ろうと思っていたのです。現在でもイナゴの佃煮は珍重されているようであります。地域によってはイナゴ取りによって体育館を建てたとか、校舎を建てたなどという話を耳にしたものであります。

雲ひとつなく晴れ上がった絵に描いたような秋の空です。田んぼには落ち穂を求めて雀の群れが数十羽ごとの集団をつくって、あっちの田んぼ、こっちの田んぼ、と忙しく飛び回っています。
そうです、今日は待ちに待った小学校の楽しい芋煮会の日なのです。昨日からそれぞれ手分けして買い物をして、集落ごとにわかれて小学校の校庭に集合したのです。カズちゃんは上宿集落になります。
カズちゃんの所属する上宿集落には、男の子は、ゲタヤのカズ・せんべい屋のトシ・もめん屋のゆういち・キク屋のトオルの4人がおり、女の子は文房具屋のヨウコ、タガヤのタカコ、カワバタのハルミの3人であります。
現在でもそうかも知れませんが、当時は苗字で呼ぶよりも屋号で呼ぶことが子供の世界でも一般的でありました。カズちゃんの屋号はゲタヤでありまして、文字通りゲタヤを兼業していたのであります。せんべい屋なんて屋号は別にせんべいを売っているわけではなく、なんでそう呼ばれているのかはわかりませんでした。別段そんな事を気にしたこともなく、大人たちがそういうので子どもたちもそう呼んでいたに過ぎません。

因みにあの楽しかった芋煮会の日から半世紀たった現在では、ほとんどの幼なじみは郷里から出ていき現在残っているのはもめん屋のゆういち君のみとなっています。カズちゃん自身も遠く埼玉市岩槻区に居を構えて久しいのでありました。


大きなリヤカーには、かなり多くの材料や道具が積み込まれています。薪(まき)と大きな鍋、むしろ、芋煮の材料に水を入れた一升瓶が7,8本積まれています。それに各自のお弁当や、おやつなどが加わりますから、かなりの量と重さになるのです。
今ではリヤカーなどというものは、災害用に備える公共施設ぐらいでしか目にすることが無くなりました。そして昔ながらの鉄パイプ製の頑丈なリヤカーを製造しているところは日本で一箇所しかないそうであります。
まだ自動車なんてものが、ほとんど普及していなかった時の事ですから、農作業用のリヤカーはどこの家庭にも1台はあった必需品だったのです。
それに、ブルーシートなんてものは目にすることも無かった時でありますから、座る場所は、筵とかゴザが一般的でありました。
また、ペットボトルなどという便利なものも出回っておらず、必要な水は一升瓶にいれることになるのです。
車が少ないということは、当然、道路も舗装されているところはほとんど無く、でこぼこだらけの砂利道だったと記憶しています。

今年の芋煮会を行う場所は小学校から約1kmほど行った最上川の河川敷になっています。その年によって、芋煮会をやる場所は違います。時には本日集合場所になっている校庭で簡単に済ませてしまったり、北山にあるグラウンドであったりします。

小学校の校庭から出発した数十台のリヤカーを中心としたちびっこ集団は宝鏡寺の山門の前を通りぬけ門前集落に、わいわいがやがやと、にぎやかに差し掛かります。門前集落を過ぎますと、突然に人家は消えてしまい、格段に見晴らしの良くなった刈り入れの終わったばかりの田んぼの真中の農道を進むことになります。西には真っ赤に色づいた湯の沢山や、その上に標高1,462mの霊峰葉山を見つけることができます。

私の現在住む埼玉県では、場所によっては早いところでは、8月の終わり頃から稲の刈り入れ作業も始まっており、9月の半ばまでにはすっかり終わっているところもあります。一方、郷里山形での米の収穫は関東よりは1ヶ月半か2ヶ月ほども遅く、周囲の山々がすっかり赤や黄色の秋色に覆われた頃に終わります。
一年で一番大事な米の収穫を無事に終えた大きな安堵の空気が小さな村全体を覆った時に「芋煮会」なるものが行われるのです。

まだ耕運機を始めとした農機具などがそれほど普及していない時代では、トラクターや田植機やコンバインなどは影も形も無く、想像することすらできなかったのであります。当然ほとんどの作業を人力に頼らなければならない農作業はとても過酷で辛いものでありました。
なかでも田植え、夏の強い日差しの下での雑草取りから稲の刈り入れがそうでありました。
田植えや稲の刈り入れは家族を総動員しても間に合わず、そこで親戚や知人・友人の手を借りることになります。これを「結(ゆい)」といいます。こうして互いに助け合わなければ生きていけなかったのです。
農業以外にさしたる産業のない我が故郷の寒村は稲の刈り入れが終わると、小さな集落を大きな安堵が包みます。
大きな安堵が村を包んでしばらくすると、親睦と感謝をこめて近所や友達仲間同士で湖や河原や山に出かけていってやるのが芋煮会であります。

ようやく最上川の河原に到着するとそれぞれに手分けして芋煮の準備にかかります。まずやらなければいけないのは竈(かまど)を作ることであります。河原から大きな石をたくさん集めてきます。こういう事が得意なのが、キクちゃんです。勉強はそれほど得意でなくもこういうモノ作りをやらせたらかなう奴はいないのです。
石組みが終わると、手頃な灌木を3本ほど切り倒して3脚にして上から鍋を吊るせるようにしたのです。そんなことをやっているグループはなく全員感動してしまったのであります。
次に難しいのは薪に火をつけることであります。当時はチャッカマンとか着火剤などというものはありません。いきなり、薪にマッチを擦って火を点けようとしても無理なことであります。これもいつもいたずらばかりしているカズちゃんには得意技であります。
枯葉をたくさん集めてきて立ちどころに勢いよい焚き火を作ってしまったのです。
カズちゃんは、いたずらでいつも火遊びをしていたわけではなくて、朝ご飯を毎日炊く役だったのです。
当時はまだガスなどは普及していなくて、竈に薪をくべて羽釜で家族全員の一日分のご飯を一挙に炊いていたのです。だから薪に火をつけるなんてことは文字通りに朝飯前だったのであります。

「五月雨を集めて早し最上川」と、芭蕉が詠んだ句で有名な最上川は、まさに山形を代表する1級河川であります。飯豊連峰を源として、置賜地方を通り、村山地方を蹴飛ばし山形を横断するかのように庄内地方の酒田から日本海に達して消えてしまいます。
また最上川は熊本県の球磨川、静岡県の富士川と並び、日本三大急流のひとつに数えられているのです。
酒田では北前船によって米を搬出し、上方の文物を運び込みました。米もそうですが、山形の県花になっている紅花を舟運によって京都まで運び染料や紅(べに)の原料となったのであります。
山形県は大雑把に分けますと米沢を中心とした置賜文化圏、山形市を中心とした村山文化圏、酒田市・鶴岡市を中心とした庄内文化圏に分かれます。キクちゃんの生まれ育った大久保という村は村山文化圏になります。一番方言のきつい場所になります。

当時の最上川は、対岸にあたる東側には大きくて頑丈な堤防が築かれていましたが、西側にあたる我が大久保村のほうには堤防は築かれておらず、その分河川敷は広く上流から流されてきた良質な砂や砂利の採取場でもありましたが、子供の遊び場としても最適なものでありました。

芋煮鍋の発祥の詳しい経緯は知らないのですが、一節によると牛肉食を普及させるために考えられたというものでありますが、真偽の程は定かではありません。

秋の収穫が終わり、毎年楽しみにしていた芋煮会の季節が終わると、その足をことさらに急ぐように北国特有の寒い冬に向かっていくわけであります。私の幼かった頃は降り積もる雪の量も多く、自分の身長も低かった事もあり現在の10倍ぐらいだったように記憶しています。

2014年9月9日火曜日

芋煮会?2

まだまだ暑さが続くことを身構えて覚悟していたのですが、拍子ねけするぐらいに涼しくなってきましたね。いつしか蝉の声も聞くこともなくなり、日が暮れれば鈴虫の大合唱であります。おそらくこのまま秋に突入していくのでしょう。旅をするには最高の季節になりますね。





雲ひとつなく晴れ上がった絵に描いたような秋の空です。田んぼには落ち穂を求めて雀の群れが集団をつくって飛び回っています。
そうです今日は待ちに待った小学校行事の楽しい芋煮会の日なのです。昨日からそれぞれ手分けして買い物をしてそれぞれの集落ごとにわかれて小学校の校庭に集合したのです。カズちゃんが住んでいるのは上宿部落になります。
カズちゃんの所属する上宿部落には男の子はせんべい屋のトシ・もめん屋のゆういちキクヤ屋のトオルの4人がおり、女の子は文房具屋のヨウコ、タガヤのタカコ、カワバタのハルミの3人であります。
リヤカーには、かなり多くの材料や道具が積み込まれています。薪(まき)と大きな鍋、むしろ、芋煮の材料に水を入れた一升瓶が7,8本積まれています。だからかなりの重さになるのです。まだ自家用車なんてものがほとんどの家になかった時ですから、農作業用のリヤカーはどこの家庭にも1台はあったのです。それに、ブルーシートなんてものは目にすることも無かった時でありますから座る場所は筵とかゴザが一般的でありました。また、ペットボトルなどという便利なものも出回っておらず、必要な水は一升瓶にいれることになるのです。車が少ないということは、当然、道路も舗装されているところは無く砂利道だったと記憶しています。
今年の芋煮会を行う場所は小学校から約1kmほど行った最上川の河川敷になっています。その年によって、芋煮会をやる場所は違います。時には本日集合場所になっている校庭で簡単に済ませてしまったり、北山にあるグラウンドであったりします。
小学校の校庭から出発した数十台のリヤカーを中心としたちびっこ集団は宝鏡寺の山門の前を通りぬけ門前部落をにぎやかに差し掛かります。門前部落を過ぎると突然に集落は消えてしまい、刈り入れの終わったばかりの田んぼの真中の農道を進むことになります。西には真っ赤に色づいた湯の沢山やその上に葉山を見つけることができます。

2014年9月8日月曜日

芋煮会?

朝からあまりはっきりしない空模様でしたが、乾かないならそれでいいやと半分開き直って洗濯機を回しました。
日中はかろうじてどんよりとした空は持ちこたえましたが、夕方になってこぼれてきそうな気配がしたので、もはやこれまでかと思いまだ乾いてもいない洗濯物も取り込んでしまいました。
洗濯物がシャッキと乾かないのは心も湿りがちになってしまいますね。いっそ雨ならそのほうが諦めもつくのですけれども。本日の天気は私と同じでなんだかはっきりとしないものでありました。

数日前から山形の風物詩芋煮会のことを書こうと思っているのですが、田植えが終わった時は「さなぶり」というけれども、稲の刈り入れが終わった時のことをなんというのかわからず、書き出せずにいます。どのようなキーワードで検索していいのかもわからず途方にくれています。どなたか知っている方がいたら教えて欲しいものです。お願いします。
先日大洗町で一泊して帰る途中に、いつもの国道6号線を走るのもつまらないなと思ったものですから、太平洋側を南下して鹿島に出て、潮来を経由して利根川沿いを走りました。あのコースは風景がのんびりしていてなかなかいいですね。
そこで目にしたのは、まだ9月にもならないのに、稲の刈り入れが終わっている田んぼがたくさんあったことであります。郷里山形では確かではないですけれども稲の刈り入れは早くても10月になってからのように記憶しているのであります。千葉県はいかに温暖であるかを再認識したしだいであります。
米作り以外にさしたる産業のない我が故郷の寒村は稲の刈り入れが終わると、小さな村を大きな安堵が包みます。私が子供の頃は農業機械などほとんど普及していなくて、多くの作業を人力に頼らなければならなかったのです。特に辛いのは田植えと夏の田の草取りと最後の刈り入れです。田植えと刈り入れの時は村人はそれぞれに助け合います。これが「結」(ゆい)と呼ばれるものです。こうして互いに助け合わなければ生きていけなかったのです。
大きな安堵が村を包んでしばらくすると、親睦と感謝をこめて近所や友達仲間同士で湖や河原や山に出かけていってやるのが芋煮会であります。

聞いた話によると最近はかなり形骸化しており、居酒屋あたりで「芋煮会」と称してやるそうです。そこには形ばかりの芋煮がでてきますが、刺し身を始めとしてたくさんの食べ物が主役だそうです。
それはあたかも「花見」と称して呑み屋で呑み会をやり、ひとつも花見をしないのと一緒だそうです。ちょっと寂しい話ではあるけれども、結構笑える話でもあります。

考えてみれば、大型のトラクターをはじめコンバイン等々の近代的な農業機械がすべて行うわけですから助け合いなんてものは、まったく必要ないわけであります。だから芋煮会も形骸化してもひとつも不思議ではないと思われるわけであります。

2014年9月7日日曜日

賄う辛さに音をあげて・・・・・・

以前には、どこか気に入った田舎を見つけて暮らしたいなと思っていだのだけれども、最近はまったく思わなくなってしまいました。
自然だのアウトドアだのなんて口では云ってますけども、結局都会ぐらしのほうがずーっと刺激的だし、快適なんですよね。
都会ぐらしに疲れた時だけに、道具を車に積み込んで気軽にでかけていけばいいだけの話なのです。地方と都会の2元ぐらしがいいなと思っています。もうひとつは、家とホームレス(車上生活)の2元ぐらしですね。
同じような考えで田舎のほうに別荘を持つというのにも一時期憧れたのですが、別荘を手に入れるためには、どれほどガンガラなければいけないか、また運良く手に入れられたとしてもそれを維持管理していくためにはどれほどのパワーがいるのかに思い巡らすと、これも得策ではないような気がしてきて考えないようにしました。
田舎では買い物するにも大変です。私が気に入る場所なんていうのは、どこも大変に辺鄙な場所ばかりです。そこで生活するとなると、いつものふざけたような車中泊のような具合にはいかないのです。
長年地方を放浪していると潰れてしまったスーパーをたくさん目にすることになります。ガソリンスタンドは都会でも潰れてしまうところは目につきますけど。
ところが自宅周辺には歩いて買い物にいける場所にあらたにスーパーが開店してくるのです。スーパーとまではいかなくてもドラッグストアーなんていうのも数カ所進出してきています。
病院も大小まぜあわせてたくさんあります。齢(よわい)を重ねてくるとどんどんと保守的になってくるものであります。それはそれで由としているのであります。

写真の空はすっかり秋の空になっていたのですね。一見穏やかそうに見えますけれども結構強い風が吹いていて寒いのです。ただ自宅にいたのではこのような空を薄ぼんやりと時間の経つのも忘れて眺めれるなんてことはできませんからね。
もう、温泉にも入ったし、夕食の準備もできているし、他は読書をするか酒を呑むかぐらいしかやることがないのです。
昨年の同じ時期には、四国旅をやっておりまして猛暑の中を走り回っていたのを思い出します。同じ日にはたしか徳島の日帰り温泉に入っていたのであります。そこは結構大きな道の駅でありまして、野菜の直売所や公園も併設されており、のんびりと散策していたのでありました。その一年前は三重、和歌山方面をふらついていたのであります。その前は日本海側の福井まで足を延ばしていました。ただ思うのはもうあんなハードな運転はできないだろうなと言うことです。これはこれでいいのではないかと思います。

そうか謙虚になるというのは自分に対しても謙虚にならなければいけないことなんだな。

2014年9月6日土曜日

Pink Floyd - One of these daysと共に旅は進むのだ

気分はまだまだ長野にいます。キャンプ3日目の午後です。こんな風景を見ながら酒のんで、満点の星を眺めながら寝りたいものだと思い、早めに日帰り温泉に入り、スーパーで食料品もたっぷりと調達して胸をワクワクさせながら、ながーいクネクネ道を登ってきたのです。
結論からいいますと、今晩の野営地の気温はおそらく10℃かそれ以下ぐらいで、寒くてとても外で寛ぐなんていうことはできない状態でありました。まだお盆が終わった頃でこの状態でありますから、涼しさを求めるには高度を稼ぐことが大事だということがあらためて認識させられたしだいであります。
この地に宿営してみたいとは最初から思っていましたから、そこで流す曲も選択して用意して置きました。それはPink Floyd - One of these daysです。なんとベタだと云わないでくださいね。ここに宿泊するのはもう家族と一緒の時も含めて5回以上なのですから。

今回は比較的おだやかな天候に恵まれましたが、そのほとんどは荒れています。車で登坂できるからその高さは気にならないのですが、徒歩で登るとしたら完全に登山の範疇に入るでしょう。一度はすさまじい風の強さと大量の降雨に恐れをなして夜中に退散したこともあったのです。曲を聞いていただければわかりますが、大嵐の時に聞くにはぴったりだと思うのですが。
夕方になり陽もすっかり落ちる頃から予想したとおりに雨が落ちてきました。風も吹いています。車のなかはズルいと云われそうですが快適であります。焼酎の水割りではちょっと寒いような気がしたので、急遽お湯割りにしてチビリチビリとやっています。妻は普段はほとんどアルコールを口にしないのですが、旅に出た時は結構呑みます。なにやら私が知らない、ビールや缶酎ハイを用意して取っ替え引っ替えして毎晩呑んでいます。
そこで用意してきたこの曲を聞きました。この時ばかりは車のエンジンをかけカーステレオを大音響にして流してみました。普段はiPod専用のポータブルスピーカーで聞いているのですが、この曲だけはまともな音で聞きたかったのであります。当初の思惑通りにはまりましたね。びったしでありました。これだけで今夏の旅は大成功と云っても過言ではないような気がします。

「もっと、もっと謙虚になりなさい・・・」の回答は得られないままに、私は数日前からここに佇んでいる。おそらく自分の想像力を駆使して相手の気持ちや立場をおもんばかるということではないかという気がしてきた。こんな幼稚な回答しかでてこない自分は恥ずかしいのだが、それはいた仕方のないことなのだ。

2014年9月5日金曜日

「もっと謙虚になりなさい・・・」という声が聴こえてくる

最近、幻聴なのか時々「もっと謙虚になりなさい・・・」という声が聴こえてくる。若い時に比べれば随分と謙虚になったつもりではいるのだが。
 特に病を得てからは、友人知人そして家族には世話になりぱなしであるから、謙虚になららざるを得なかったのです。どうもそんなもんでは許されないのかも知れない。
 ただ、このばか頭はそもそも謙虚になるってどういう事なのかを基本的に理解していないようなのです。
 だから、俄(にわか)にそんな事を云われても途方にくれてしまっているというのが実情なのであります。

 気持ちはまだまだ8月末の長野キャンプであります。テーブルと椅子があると、貧乏キャンプもかなりリッチに見えます。
 最初キャンプのまね事をやり始めた頃は、借りた安物のテントひとつしか持っていなかった。ダンボールの箱に家で使っている鍋やフライパン等々を詰め込んででかけていました。当然椅子やテーブルなどの影も形もなかったのです。食事をする時はどうしたかといいますと、やはりダンボールを下に敷いてダンボールの箱をテーブル代わりにしていたのです。
 それでも結構楽しくてね、そりゃあ周囲のキャンパーに比較したら向こう様はレジャーでこちらは食い詰め者のホームレスでありますよ。
 でもそれはある意味当たっていたからしょうが無かったのです。コールマンだのスノーピークだのモンペルだののキャンプ道具を買う余裕はまったく無かったのであります。それでもアウトドアがやりたくてやりたくて休日となれば必ずでかけておりました。
 格好さえつけなければ、家庭にあるもので充分に間に合うという教訓をその時に得たのでありました。その後家族分の椅子とテーブルを購入できた時には新築の家を買ったような気分になりましたからね。

2014年9月1日月曜日

ハーレーで旅するなんて、所詮叶わぬ夢なのです


オートバイには乗れないから、私には絶対に真似のできない旅でありますが、でもオートバイで旅しているのを見かけると憧れてしまいます。

長野の旅でもたくさんのライダーを見かけました。その都度見とれてしまいました。特に好きなのはハーレダビッドソンの腸(はらわた)に響いてくるようなエンジン音ですね。
同じハーレでもアメリカのハイウェイパトロールのような、オートバイに跨がり、お巡りさんのような制服に中年太りの体を無理矢理包んで、映画に出てくる典型的な悪徳警官のような格好をして、しかもあろうことか集団で走っているオジさん達ではありませんよ。
あの集団を見ているとなんだかこちらの方が気恥ずかしくなって赤面してしまいます、そんな時はそーっとその場から逃げてしまいます。あれだけは勘弁して欲しいです。いや、いいんですよ、人は好き好きですから何をやっても。

私が好きなのは、いかにも暴走族あがりのいかついあんちゃんが、それで良く車検がとおるなと思われるぐらいに改造してあるハーレーが好きなのであります。
あんな格好をしてのんびりと日本中を旅してまわれたら、シアワセだろうなと強く思うのであります。

長野の旅から帰宅したばかりなのに、一昨日大洗町に一泊どまりで行ってきました。一番上のあんちゃんが、なぜか大洗に執心しているのであります。そのことはいずれ又の機会に・・・・・。