2016年3月14日月曜日

私のできることは、せめてテレビの特集番組を観ることぐらい

昨夜はめずらしく晩酌もかなり早い時間に終わってしまって、格別やることも見当たらなかったので9時ちょっと前に寝床に入ってそのまま寝入ってしまった。
目覚めて薄暗闇のなかにぼんやりと見える時計を見上げるの5時40分あたりを指している。これは一夜明けての翌朝の5時40分なのか、それとも夕方の5時40分なのか、それとも電波時計の電池が無くなってしまって、時計そのものが狂ってしまっているのか、瞬時に判断できないまま数分の時間が過ぎ去った。
習慣というものは恐ろしいもので、いつも9時前に就寝するということはなく、それでいて目覚めるのは午前3時前後なのであります。これでは絶対的に睡眠時間は足りてないように思うのだか、一日のなかでちょこちょこと朝寝、昼寝、夕寝などを挟み込んでいるので全部を足し算すれば人並みの睡眠がとれていることになるのです。
それが夜の9時に眠りについて6時近くまで途中一度も目がさめることなく眠りこけていたことが今朝の目覚めの戸惑いにつながったわけであります。
週のはじめなのに、最初から生活のリズムが狂ったような状態で始まったこと自体に少しの不安を感じたのですが、それ以降朝寝をする必要も感じることもなく、おそらく昼寝、夕寝もしなくても済みそうであります。これが本来のまともな睡眠のあり方に違いないと良い方向に無理やり思うことにしての月曜日であります。

3月11日を中心にして東日本大震災の特別番組を中心にして見られるかぎり見続けました。日曜日の夕方頃まで見続けて精も根も尽き果てて、精神的にはボロボロな状態になってしまいました。この5年の間はマスコミの震災報道をたんに聞き流していたに過ぎませんし、決して自分のこととしては捉えてはおらず、やはりどこまでも他人事であったのです。
また、無意識にがっちりと組み合って受け止めるのが、心のどこかで懸命に拒否していたのかも知れません。
だからこの時期に毎年放映される3.11の特集的な番組は敢えて見ようとは思わなかったし、実際見てもいなかったのです。
テレビ局を始めとするマスコミはたんに視聴率や売上を稼ぐためであったら、その材料はなんでもいいのだし、それが同胞の不幸や悲しみであってもセンセーショナルに仕上げて流せばある程度の視聴率は稼げるぐらいしか考えていないのも確かなことですから。
あれから、5年も経ったのか5年しか経っていないのかはわかりませんが、その5年の間に私の身にも自業自得的な病が襲い、健康を失うことの悔しさと老いていく悲哀を存分に味わいました。そのことが自分の心境に一番大きく影響をしていることが容易に想像がつきます。
昨年までのひねくれた心は、いつしかどこかに雲散霧消しており、できるだけ被災者の言葉を、その記録を真摯に向きあって聞こうと心がけました。

あまり旨くはいえませんが、それがたまたま被災者にならずに済んで、この5年間なんの苦労もせずにぬくぬくと生きてきた私の努めだろうと思ったのです。せめて、せめてテレビに映し出される姿や証言の数々を黙って聴くべきだと。
それをやったからって、別に世の中が、日本が変わるわけではありませんが、見れば見るほど聞けば聞くほど、涙が溢れて出てきて、その重さに耐え切れなくなってしまいます。
冷暖房完備の暖かい部屋で、ふんぞり返ってテレビを見て泣かれても・・・・・・。そうは思いました。なんども思いましたが、今の私にできることせいぜいそのぐらいの事しかないのも確かなことであります。
そのような欺瞞に満ちた行為であって、最後はあまりにもその震災のもたらしたことの重さに、正直これ以上はもうたくさんだなと思っていたら、日曜日を境に手のひら返しのようにいつものバカ番組を垂れ流すようになっておりました。これでいいのかも知れない。なんとなくテレビ局の手のひら返しに安心している自分を見たりしたのです。

こんなフザケタ奴のフザケタ行為であっても耐えられなくなってしまうわけでありますから、簡単にマイナスからの出発だなんていいますけれども、出発ってなんなんでしょうか。勝手に出発なんて・・・・・。

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