2016年3月28日月曜日

作文という心理療法

目が覚めると同時に、シーリングライトのリモコンを必死に手さぐりして、かなりもどかしい思いをしながらトイレに駆け込んで、つかの間の安心を得て一息つきます。毎朝この状態になるわけですから、室内灯のリモコンを同じ場所に置いておくぐらいのことはやっておけばと思うのですが、そう思うのは早朝だけのことであります。就寝時間になる頃になるとそんなことはすっかり忘却の彼方に追いやられていますから、毎日この愚にもつかないドタバタを繰り返しているわけであります。

いつも起床するのは最近の日記をみてみれば平均して午前2時半というのが定着しているようであります。トイレに駆け込んで事なきを得てから、完全に覚醒するまでの時間にコーヒーメーカーで一日分のコーヒを淹れます。一日分といいましても、コーヒーはこの朝の時間帯にしか呑まないのものですから、私にとってはこの時に作ったコーヒーが一日分となるわけであります。マグカップで4杯分ぐらいになるでしょうか。
そのコーヒーが出来上がるまで、おおよそ10分ぐらいの時間を要します。その間にテキストエディター専用のPomeraを立ち上げます。立ち上がるの1秒から2秒ほどでほとんどストレスを感じることがないすぐれもので、現在使っているPomeraで3代目になるぐらいに気にいってる逸品であります。
立ち上げると同時に「今日」と打鍵しまして変換しますと、「2016年3月28日(月)」と出ます。続けて「今」と打鍵して変換します。そうしますと「午前2時42分」とでます。
これが私の一日のすべての始まりであります。
なんだそれだけのことかと思わるでしょうけれども、これが大切なのであります。Pomeraにはその後、思いついたことやメモややらなければいけない予定や、日記、雑文等を委細構わず打鍵していきます。
これで一日に打ち込む文字数は平均してみますと5000文字から8000文字といったところでしょうか。これを1週間ほど続けますといかにテキストファイルとはいえどもかなり大きくなってしまって打鍵して文字列を変換する時に時間がかかるようになります。1秒まではかかりませんが、この待ち時間がもどかしくてしょうがありません。やはりスペースキーを押したら瞬時に変換してくれないと、自分の思考の流れが邪魔されるような気がして我慢できないのであります。もっとも私の思考なんていうものは、このバカ頭を駆使してのものですからたかが知れているものではありますけれども。
そんなわけで、日本語変換が遅くなってきたころを見計らって普段メインで使っているパソコンの「2016駄文日記.txt」にUSBコードパソコンとPomeraを繋いでPomera側のファイルの全ての駄文を追い出してやります。メインのパソコン性能はさすがなもので1年分ぐらいの全文章をぶち込んでも何らストレスを感じることもなく、検索するのも超高速ですから快適であります。そりゃあそうです、たんなるテキストファイルなわけでありますから。

駄文とはいいながらも一日平均5000文字から8000文字ほどを毎日書き続けていると、結構いろんな事に気がついてくるものであります。もう何年前のことでしょうか、記憶が定かでは無いのですがおそらく10年近く前のことだと思いますが、一日に2万文字を目標に日記を毎日書こうときめて実行したことがあります。
とにかく大量の文字を書くというのが目標でありました。あくまでもそれは文章量ではありません、単純に文字数なのであります。ですから意味が通じようが不明だろうが委細おかまいなしという、まったく意味不明で不毛な試みでありました。なぜそのように決意したかの動機はすでに曖昧になってしまっております。それを半年間やってみました。結果をいえば一日2万文字は無理でありました。一度だけ15000文字ぐらいを書いたことがありましたが、平均すれば8000文字ぐらいでありました。ひと言で8000文字といってもそれを毎日打鍵しつづけるというのは相当に困難なことだったことだけは覚えています。

いかにほとぼりが覚めてしまったとはいえ、今回似たような試みを始めましてすでに2ヶ月が経過しました。今回は文字量にはそれほどこだわることはしないで、ある程度は意味の通じる文章を書くことをしました。内容の陳腐さは自分で自分の力量ついては一番理解しているわけでありますから、これにも拘(こだわ)らないということにしています。

さて、前回もウスウス感じていたことなのですが、作文する行為というものは、自分との対話以外の何者でもないということです。作文が自分との対話だという説はいかにも唐突に思われるかも知れませんが、もっというならば個人的な日記の場合と言い換えてもいいのかも知れません。
ブログではなく、個人的な日記でありますから、誰に見られるわけでもありません。超個人的なものであります。だから、正直に自分の頭に思い浮かんだことを正直に書き連ねていけばいいわけであります。句読点の滅茶苦茶さや文体の不均一や、ましてその幼稚さなどを誰にも指摘されるわけでもありません。通常そう考えるのがあたり前です。私もそのように考えていました。
ところが、一日に5000文字あたりを目安に毎日個人日記を書くをやりつづけていて気がついたのは、誰に見られるわけでは日記、見たり読んだりするのは自分だけだという条件下においても、自分は自分に嘘をつくし、見栄もはるということを発見したのでありました。
ここで誤解を受けるかも知れませんが、その嘘は単純に見栄をはるだけのものではなく、自分を卑下したりすることも必要以上にデフォルメしてしまうことがあるという事実の発見であります。しつこいようでありますが、それは自分自身に対しての話なのであります。
私は多重人格者ではないと思っています。それでも毎日作文をしていますと、そこに複数の自分が登場してくることを発見したのです。最初はそれら複数の自分というキャラクターを高見から眺めている真性の自己というものがあり、自分A・自分B・自分C、DEFのやりとりを客観的に観ているものだと思っていたのですが、人の頭のなかなんてそんなに単純なものではなくて、どれも自分自身なのだということにようやく気がついたのでありました。
前述とはちょっと違いますが、座禅なんかを組んで静かに考えるなんてことがあったとします。それでなくても、何かについて考えなければいけないことがあったとします。他の人のことはわかりませんが、ひとつの事を集中的に考えるということが私にはできないのであります。ましてや、その結果結論を出すなんてことは至難の業であります。ひとつの事を考えなければいけないと思えば思うほど、まったく関係のない事が唐突に現れてきては消え去ってしまうのであります。
突然、昔つきあってたいい女のことや(うーん、これはウソなのかな)、昨夜の晩酌のおかずのことや、そうだ今夜のつまみは何にしようかな・・・・なんて具合でありますから、最後には何について考えようとしていたのかすら定かですらなくなってくる始末であります。
この散漫な思考力を少しでも解消するのは作文することだということを発見したのであります。作文は自分の頭のオヨワさを補う最高の道具なのだと認識するようになったのであります。

ここまで書き進めてきていつもどおりに息切れしてきましたので、本日はここまでとすることにします。

そうそう、これも最近思っていることなのですが。

 「なんでそんなにも君の作文は長いのですが?」
 「頭の悪いヤツの文章はただ饒舌なだけで内容がないんだよ」
チャンチャン♪♪♪

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