2016年6月12日日曜日

ただボーゼンとしていた日曜日

昨日は久しぶりに、にわか洗濯男に変身したことを書いておきましたが、自分でも意外だなと思うのは「変身!食器洗い男」であります。この突然変異は自分で思うのも不思議なくらいに、かなり長い間続いていているのです。もちろん毎回全部の食器を洗っているわけでないのですが、二日酔いしていない限りは、ほぼ全部、しかも結構手を抜かずに洗い続けているのであります。

その昔、単身秋田のド田舎で、ガス・水道・電気なしの生活を半年ほど体験しまして、敢えなく挫折して我が家に帰り着いた時に一番に感動したことがあります。
それは蛇口をひねれば大量の水が惜しげも無く出てくることでありました。秋田ではもらい水でありましたから、貴重であります。食器を洗うのにも無駄にはできませんでした。だったら紙の食器を使えばいいではないかという話になりますが、私は住民登録をしていませんから堂々とゴミを捨てることもできなかったのであります。
だったら燃やせばいいではないかとなりますが、昨今はちょっとでも焚き火をすれば、すぐに誰かが駆けつけてきて厳重注意という事になってしまいます。ましてゴミを燃やしているなんていう事になれば・・・・。
その不便な生活を半年ほど経験した後に、水のありがたさを身にしみて感じるようになったわけであります。それ以来、洗濯とか食器洗いに大きなヨロコビとシアワセを感じるようになったことは確かなことであります。
もともと私はヨロコビやシアワセを感じるのに随分と安上がりな人間なのでありますけど。

そのかなり昔に小学生頃の通信簿には担任が必ず書き込んでいた言葉が、「落ち着きがない、協調性がないと」いうことでありました。
「なぁにを云ってやがるんだい、トンチンカンな事を書きやがって・・・」なんて当時は思っていたのですが、この歳になってみれば全部当たりすぎるぐらいに当たっているなと、当時の担任の先生方の眼力にはほとほと感心してしまいます。
この落ち着きがないというのは、三つ子の魂百までものことわざ通りに、今でもまったく変わりはありません。それどころか、最近は集中力もどんどんと失われてしまって落ち着きのないジジイになってしまっています。
そんな状態でプログラミングなるものをやっているものですから、ちょっとした壁にぶつかったりしますと元来の落ち着きの無さを存分に発揮するようになるわけであります。普通ならその越えるべき壁の原因をじっくりと調査するわけでありますが、もう切れてしまってじっとディスプレイの前に座っていることすらできなくなってしまって、台所に行って食器洗いなどをやったりしますが、すでに洗う食器が無ければ、急に掃除を初めたり、それもやった後では、やたら歩きまわったりするわけであります。
だから食器洗いを毎日、毎回続けているといってもその動機が結構怪しいものがあるわけであります。だから壁にぶつかる回数が多ければ多いほど私の周囲はどんどんと片付いて清潔になっていくという一概に単純にヨロコベないという状況にあるわけであります。

妻が仕事を休んで主婦でいる場合は、そうそうアカラサマに彼女の領域を荒らすわけにもいかず、ただ呆然として周辺をウロウロすることになるわけであります。そのような状態が本日日曜日の一日でありました。なんともはや

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