2012年10月4日木曜日

どういう風にケジメをつけるかが問題なんだよな

 その場では一言も発してないことを持ちだしてきて罵倒され続けられるのには参った。それに対して百倍ほどの反論はあるのだけれども、その結果は徒労に終わることが予想されるので、ここは黙るしかない。
 たとえ私を罵倒した人間を論破して勝つことができたとしても何ほどのこともない。そういう人間を相手にするだけエネルギーの無駄であることをこの年になってようやくわかってきたからなのだ。
 以前の私であったなら、頭に血が上り、理論(口)で勝てなかったら暴力を行使することさえ持さなかったに違いない。ところが最近は行使するほどの暴力はすっかり衰えてしまって相手に簡単に逆襲されかねないのである。
 これは笑い事ではない。若いころは喧嘩は強かった。そして相手を暴力で叩きのめす研究を常に続けていた。愚かなことにそれが男の強さだなんて思い込んでもいたのである。おかげで何度となく警察のお世話になったこともある。愚かさはそれに拍車をかける、それが男の勲章だぐらいに思い込んでいたのである。小心もののなせる技である。
 物事には必ず2面性があるということがわかってきた。少なくとも表と裏があり、それに諸要素が加わり斜めだの、上だの下だのと条件が重なり、どれが真実かなんてわからない場合のほうが多いし、ひょっとしたらどれも真実かも知れない。
 彼の罵倒する言葉を聞いているとマスコミが垂れ流しぱなしのことを鵜呑みにして、安ぽい訳のわからんようなコメンテーターの発言よろしく責めてくるのである。こういう類の奴を相手にしてはならない。彼はすでに見切られていることを自覚してないのだから。
 60歳周辺の老人は実に切れやすく危険なのである。ワイドショーの事件を見ていてもそうでしょ。ようやく体力の衰えに気が付き愕然とするのはわかるのだが、残りの人生に対して自分のなかでまだ処理ができていないのだからかなり始末が悪い。
 誰しも普段から自分の生き死にのことを考えているわけではない。でもそろそろ旅たちの準備を始めなければいけないのではないかと思う。
 その準備というのはなにもどこの葬儀社を使うとか墓はどうするかとかという話ではない。そして宗教の話でもない。いくつまで生きるかは神のみぞ知ることではあるが、自分の人生のケジメということを考えはじめてもいいのではないかと思っている。

なんていうことをたまには考えるのだが、どうも性根が座ってないものだから、相変わらずのうろんな日々を送るのみなのだが。
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