2016年3月31日木曜日

糖質制限療法と私の妄想

糖質制限療法を続けるために毎日努力を続けています。これは私の長年の不摂生のたまものである糖尿病との共生を続けるためのものであり、健康ダイエットなどという余裕のあるものではないのであります。これをやり続けてすでに2年近くになりますが、決して慣れるということはなくて、毎日3度の食事に苦労しています。特にできるだけ炭水化物を摂らないというのは発狂してしまうほど辛いものがあるのです。
もともと御飯類や麺類は大好きだし、基本的に味噌汁と白いご飯と漬物でもあればそれで済んでしまう食生活であったのですから。何十年の間、お昼ごはんは麺類でありましたからね。別に嫌いで避けているわけではないのですから、この苦しさはやったことのない人にはわからない事だと思います。
それでも、大量のインスリンを投与した時期を脱却しまして、今では3ヶ月に一度、かかりつけの病院に行って、血液と尿の検査をするだけになりました。一日四回のインスリンの投与も負担ですけれども、一番嫌だったのは、一日三回の血糖値測定でありました。それほど痛いわけではないのですが、体に針を射して血を出すわけですからね、これを死ぬまで続けなければいけないのかと思うと頭の芯からゲンナリしてしまいます。今は何もすることがなくなってしまったのでメデタシメデタシであります。

酒は焼酎ですけれども目一杯呑んでいます。それで大丈夫です。これらのことは自分の体を実験材料にして試してきたことですから。
本当は生ビール命であったし、日本酒ほど旨いものは無いと思っていたのですから。もっとも酒を呑んで人には言えないほどの失敗したのは、日本酒でもあったのですから、これはちょうど良かったかも知れません。酒はいくら呑んでもかまわないのですが、蒸留酒に限ります。焼酎・ウィスキー・ウオッカ・泡盛等々にしておきましょう。

あれ、なんだか最初にこの文節を書き始めた意図と違ってきましたので、元に戻すことにしましょう。そうです、何日か前に書いた「朝鍋」の事でした。炭化物を摂らないで満腹感を得られて栄養価も高いので理想的な食べ物だと思って、毎朝、野菜と魚を中心にした一人鍋を食べていたのですが、10日ほど連続して食べていましたら、もう飽きてしまいまして、当分の間、できれば1年ぐらいは食べたくないようになりました。糖質制限療法の大変このように飽きてしまうということがあるのです。ゆで卵、チーズ、豆腐、納豆等も昨年食べ過ぎましてしばらくのあいだ見るのも嫌になっていました。ゆで卵は今でも食べたくないですね。
あんまりにも炭水化物を我慢し過ぎますと、そのリベンジが襲ってくるようになりますので、時々は摂るようにしたほうがいいように思います。

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毎日愚にもつかないことを次から次へと考えながら生きています。当然周囲の人には理解されることなど望むべくもなく、ほとんど相手にもされていません。
ちょっと寂しいような気もするけど、このバカ頭からでてくる考えなんてものは所詮その程度のものだから仕方がないなと気にもしないで、またバカな事を真剣に考えたりしています。

これはどうも自分の持って生まれた性癖なのだと最近少しだけ気が付き始めました。
それらのひとつひとつをここに晒しても、相手にされないだろうし、その現実を突きつけられた時にいかに免疫ができているとはいえ、多少なりとも傷つくだろうなと思い、それらの妄想は大事に自分の裡にだけしまっておいて、少しずつ大事に膨らませていこうと思っているのです。

と、ここまで書いて、またちょっとだけウソを書いているなと思いました。「自分の妄想をここに書いても相手にされない」という部分はある程度は当たっていますが、実際はそれを具体的に書ける筆力がないだけの話なのです。人は自分自身にも都合のいいウソをつくという典型的な例であります。

私の妄想のひとつにトラックで旅して回るというものがあります。トラックだったらかなりの荷物も積めるし、もともと重量物を運ぶだめに作られているのだから、あのキャンピングカーのようにノロノロヨタヨタ走って他の車に迷惑をかけることもないだろうと考えたのです。それに造りようでしょうけれども、かなり安価に手にすることができるのでないかと考えたのであります。
それにスペースも充分に取れるし、その荷台は真っ白なキャンパスでありますから、どのような居住スペースを設計しつくり上げるかも思いのままであります。この妄想に取り憑かれてからかなりの年数になります。
旅するのは妻と二人なんだから、カプセルホテルの寝床を2段に積み上げればかなり快適な寝室が確保できるのではないかとか、外観は普通のトラックと変りなく幌で覆ってしまって中はFRPで造り完全冷暖房完備にするとか・・・。
こういう妄想を考え始めると、もう楽しくてしょうがありません。

これらの妄想をこれから時々書いていきたいと思っています。

2016年3月30日水曜日

こぶし咲く情景によせて

ここ2,3日は暖かくて、夜中でも室温が21℃もありました。よっこらせと起き出してもひとつも寒さを感じることがないのは有り難いことであります。
6時を回った頃に雨戸を開けることを思い出して、ガランガランとシャッターを南側、東側と順番に開けましたら、そこには珍しくギランギランとした太陽が元気を発散しておりました。

冬の間は暖房の補助アイテムとして椅子に小さな(30cm四方)発熱する座布団代わりのホットカーペットを敷いてあるのですが、これもそろそろ今年の冬までにはしまいこんでしまわなくてはいけないかなと頭を霞めました。そんな小さなアイテムよりも問題は大好きなコタツをいつしまうかというのも問題だなと真剣に思わなければならないほどの気温になってきたということなのでしょう。

まだ誰にも話はしていないのですが、最近一つだけちょっと気になることがあるのです。それがここ1週間ほど鼻がぐちゅぐちゅするのです。クシャミも時々でます。どうも風邪でもないようなのでありますが、こうなると疑ってかからなければならないのは、そうです花粉症であります。この歳になるまで花粉症とはまったく無縁で過ごしてきたのですから、まさかとは思うのですが。もし花粉症であればまた老いた体に厄介なものをひとつ抱えることになるのであります。思い過ごしであってくれればと願っているのです。

書こうと思って書き忘れていたことなのですが、買い物散歩の途中で、白い木蓮の花を何度も目にしました。あの白さは純白と表現してもいい白さですね。最近は桜の開花ばかりに気を取られていたので、ハッとさせられた一瞬でありました。昨日見たら白い木蓮をみたら、すでに散り始めていました。そうそう、木蓮の花の半分ぐらいの大きさのこぶしの花も目にすることができました。
こぶしの花を目にすると決まって「こぶし咲く、あの丘、北国の・・・・」という千昌夫の「北国の春」のフレーズが間髪を入れずに浮かんでくるというのは・・・・。そして冗談ではなくて、古里のこぶし咲く情景を見たいなという思いに駆られてしまいます。まだまだ放浪癖は健在なようであります。

昨日長い間の念願だった大型のディスプレーを入れ替えしまして、今朝は起きだすと同時にメインのパソコンのスイッチを入れました。このあたりは新しいおもちゃを手にした子供の心と同じであります。
昨日は時間が無くて試せなかったツール類をひとつひとつ検証していこうと考えています。
さっそく電子書籍を読むKindleアプリを試してみました。糖尿病の合併症で目をやられていらい読書のほとんどは電子書籍になっていることは再三再四このブログにも書いてあるとおりであります。文字を中心にした読み物は通常のKindleで読みますが、技術書特に写真とか図解が多用されているものは、画像そのものを大きくすることができずに読みづらいのであります。そういう時はパソコン上のKindleアプリで読むようにしています。これで大分読みづらさは解消されるのですが、やなり問題は画像であります。文字の大きさを200%以上にしてしまうと、画像は見やすくなるのですが、横スクロールしなければはみ出てしまって読めないという不都合が生じます。
基本的には画面の縦スクロールは気にならないのですが、横スクロールとなるとこれは面倒で実用にはなりません。
大型のディスプレーに変えた理由のひとつには画像を多用している技術書をすんなりと読めないかというものもあったので、さっそく試して見ました。確かに200%以上に拡大しますと横スクロールの問題は生じるのですが、150%にしますと文中に張り付けてある写真の中の文字列も読めるではありませんか、これで横スクロールなど一切しないでページめくりもスムーズに行えます、これは狙い通りだと一人ヨロコビに浸って零れそうになった涙を必死にこらえたのでありました。
やっぱり下手にケチらないで思い切って大画面ディスプレーを購入して良かったなと満足したのでありました。身体的障害は本人の努力だけではどうにもならないところってありますからね。

2016年3月29日火曜日

大型のディスプレーに変更して、メデタシメデタシの巻


スマホが以前のパソコンの性能を凌駕するようになった昨今なんだかまったく時代に逆行しているようでありますが、以前から大画面のディスプレーが欲しくて欲しくてしょうが無かったのです。
昨日清水の舞台から飛び降りる気持ちでPhilips 40型ワイド液晶ディスプレイ (4K対応/IPSパネル/5年間フル保証) BDM4065UC/11を注文しました。そして本日の午前中に見るからに大きいダンボールが届けられました。こういう時に限って家には誰もいないのであります。昨日の月曜日は息子二人が家にゴロゴロしていたのですが。かなり大きいので梱包されているダンボールから本体を抜き出すだけで一人では手間取ってしまいます。
これまでは、24インチのディスプレー2台をデュアルモニタにして使用していました。これも快適は快適だったのですが、1年半ほど前に糖尿病の合併症で目を患わってからは、システム文字列が小さく感じられて結構ストレスを感じていたのであります。
ネットサーフィンやプログラミングをやっている時は文字列を大きく設定していますので、それほど負担にも思わなかったのですが、Adobeのお絵かきソフト群やデータベースソフト類などを使うとシステム文字列を大きくできないの、そのたびに眼鏡を使ったりルーペを持ちだしたりと、文字通りに涙ぐましい努力を重ねてきたわけであります。

午前中に、2台のディスプレーを外して大型のディスプレーを付け替えて試してみました。あまり画面が大きいと酔ってしまうとか聞いていたのですが、私にはまったくそんな症状もなく、むしろ眼鏡を掛けた時のクラクラと目眩がするよりも快適でありました。
さっそくIllustratorやPhotoShop、Access等々を立ち上げて試しました。解像度は以前の24インチディスプレーの設定値のままですから、基本的にシステム文字列は2倍になるわけであります。
ちょっと大きすぎるかなと思わんでもないですが、後でいろいろと設定を変更して試してみようと思っていますが、基本的にはこのままの設定でいきたいと思っています。

以前は2時間も続けて作業していると、目が疲れてしょうがなかったのですが、このディスプレーに変えてからは、ほとんど疲れを感じなくなりました。メデタシメデタシであります。

2016年3月28日月曜日

作文という心理療法

目が覚めると同時に、シーリングライトのリモコンを必死に手さぐりして、かなりもどかしい思いをしながらトイレに駆け込んで、つかの間の安心を得て一息つきます。毎朝この状態になるわけですから、室内灯のリモコンを同じ場所に置いておくぐらいのことはやっておけばと思うのですが、そう思うのは早朝だけのことであります。就寝時間になる頃になるとそんなことはすっかり忘却の彼方に追いやられていますから、毎日この愚にもつかないドタバタを繰り返しているわけであります。

いつも起床するのは最近の日記をみてみれば平均して午前2時半というのが定着しているようであります。トイレに駆け込んで事なきを得てから、完全に覚醒するまでの時間にコーヒーメーカーで一日分のコーヒを淹れます。一日分といいましても、コーヒーはこの朝の時間帯にしか呑まないのものですから、私にとってはこの時に作ったコーヒーが一日分となるわけであります。マグカップで4杯分ぐらいになるでしょうか。
そのコーヒーが出来上がるまで、おおよそ10分ぐらいの時間を要します。その間にテキストエディター専用のPomeraを立ち上げます。立ち上がるの1秒から2秒ほどでほとんどストレスを感じることがないすぐれもので、現在使っているPomeraで3代目になるぐらいに気にいってる逸品であります。
立ち上げると同時に「今日」と打鍵しまして変換しますと、「2016年3月28日(月)」と出ます。続けて「今」と打鍵して変換します。そうしますと「午前2時42分」とでます。
これが私の一日のすべての始まりであります。
なんだそれだけのことかと思わるでしょうけれども、これが大切なのであります。Pomeraにはその後、思いついたことやメモややらなければいけない予定や、日記、雑文等を委細構わず打鍵していきます。
これで一日に打ち込む文字数は平均してみますと5000文字から8000文字といったところでしょうか。これを1週間ほど続けますといかにテキストファイルとはいえどもかなり大きくなってしまって打鍵して文字列を変換する時に時間がかかるようになります。1秒まではかかりませんが、この待ち時間がもどかしくてしょうがありません。やはりスペースキーを押したら瞬時に変換してくれないと、自分の思考の流れが邪魔されるような気がして我慢できないのであります。もっとも私の思考なんていうものは、このバカ頭を駆使してのものですからたかが知れているものではありますけれども。
そんなわけで、日本語変換が遅くなってきたころを見計らって普段メインで使っているパソコンの「2016駄文日記.txt」にUSBコードパソコンとPomeraを繋いでPomera側のファイルの全ての駄文を追い出してやります。メインのパソコン性能はさすがなもので1年分ぐらいの全文章をぶち込んでも何らストレスを感じることもなく、検索するのも超高速ですから快適であります。そりゃあそうです、たんなるテキストファイルなわけでありますから。

駄文とはいいながらも一日平均5000文字から8000文字ほどを毎日書き続けていると、結構いろんな事に気がついてくるものであります。もう何年前のことでしょうか、記憶が定かでは無いのですがおそらく10年近く前のことだと思いますが、一日に2万文字を目標に日記を毎日書こうときめて実行したことがあります。
とにかく大量の文字を書くというのが目標でありました。あくまでもそれは文章量ではありません、単純に文字数なのであります。ですから意味が通じようが不明だろうが委細おかまいなしという、まったく意味不明で不毛な試みでありました。なぜそのように決意したかの動機はすでに曖昧になってしまっております。それを半年間やってみました。結果をいえば一日2万文字は無理でありました。一度だけ15000文字ぐらいを書いたことがありましたが、平均すれば8000文字ぐらいでありました。ひと言で8000文字といってもそれを毎日打鍵しつづけるというのは相当に困難なことだったことだけは覚えています。

いかにほとぼりが覚めてしまったとはいえ、今回似たような試みを始めましてすでに2ヶ月が経過しました。今回は文字量にはそれほどこだわることはしないで、ある程度は意味の通じる文章を書くことをしました。内容の陳腐さは自分で自分の力量ついては一番理解しているわけでありますから、これにも拘(こだわ)らないということにしています。

さて、前回もウスウス感じていたことなのですが、作文する行為というものは、自分との対話以外の何者でもないということです。作文が自分との対話だという説はいかにも唐突に思われるかも知れませんが、もっというならば個人的な日記の場合と言い換えてもいいのかも知れません。
ブログではなく、個人的な日記でありますから、誰に見られるわけでもありません。超個人的なものであります。だから、正直に自分の頭に思い浮かんだことを正直に書き連ねていけばいいわけであります。句読点の滅茶苦茶さや文体の不均一や、ましてその幼稚さなどを誰にも指摘されるわけでもありません。通常そう考えるのがあたり前です。私もそのように考えていました。
ところが、一日に5000文字あたりを目安に毎日個人日記を書くをやりつづけていて気がついたのは、誰に見られるわけでは日記、見たり読んだりするのは自分だけだという条件下においても、自分は自分に嘘をつくし、見栄もはるということを発見したのでありました。
ここで誤解を受けるかも知れませんが、その嘘は単純に見栄をはるだけのものではなく、自分を卑下したりすることも必要以上にデフォルメしてしまうことがあるという事実の発見であります。しつこいようでありますが、それは自分自身に対しての話なのであります。
私は多重人格者ではないと思っています。それでも毎日作文をしていますと、そこに複数の自分が登場してくることを発見したのです。最初はそれら複数の自分というキャラクターを高見から眺めている真性の自己というものがあり、自分A・自分B・自分C、DEFのやりとりを客観的に観ているものだと思っていたのですが、人の頭のなかなんてそんなに単純なものではなくて、どれも自分自身なのだということにようやく気がついたのでありました。
前述とはちょっと違いますが、座禅なんかを組んで静かに考えるなんてことがあったとします。それでなくても、何かについて考えなければいけないことがあったとします。他の人のことはわかりませんが、ひとつの事を集中的に考えるということが私にはできないのであります。ましてや、その結果結論を出すなんてことは至難の業であります。ひとつの事を考えなければいけないと思えば思うほど、まったく関係のない事が唐突に現れてきては消え去ってしまうのであります。
突然、昔つきあってたいい女のことや(うーん、これはウソなのかな)、昨夜の晩酌のおかずのことや、そうだ今夜のつまみは何にしようかな・・・・なんて具合でありますから、最後には何について考えようとしていたのかすら定かですらなくなってくる始末であります。
この散漫な思考力を少しでも解消するのは作文することだということを発見したのであります。作文は自分の頭のオヨワさを補う最高の道具なのだと認識するようになったのであります。

ここまで書き進めてきていつもどおりに息切れしてきましたので、本日はここまでとすることにします。

そうそう、これも最近思っていることなのですが。

 「なんでそんなにも君の作文は長いのですが?」
 「頭の悪いヤツの文章はただ饒舌なだけで内容がないんだよ」
チャンチャン♪♪♪

2016年3月26日土曜日

コタツ男化した2日間

この2日ほどメインになるパソコンを立ち上げることもなく、当然このブログを書くことも無く過ごしていました。というのも珍しく読書にはまってしまっており、寝食も忘れて読みふけっておりました。この寝食も忘れてっていう状態が好きなのですが、若い時ならばいざ知らず、体力気力を始めとしてあらゆる力が弱ってしまった現在では、なかなかそのような状態にはなれないものであります。

ここ2年ほどは目が極端に弱ってきてしまったので、文庫本の小さな文字が苦手になっており、この歳になるまで近眼、老眼の眼鏡を一切使用したことがなかったので煩わしく思えて、読書はすべて電子書籍で読むようにしています。いくらペーパレスの時代になったとはいえ、出版される本のすべてが電子書籍化されているわけではなく、泣く泣く断念した本もたくさんあります。
今回は以前から読みたいな思っていた書籍3冊をAmazonで発見したものだから、迷わずに購入してそのまま飲まず食わず眠らずの読書に突入したわけであります。私にとっての読書はスポーツみたいなもんでありますからほとんどが体力勝負のようなものであります。おかげで3冊を2日ほどで読みきってしまいました。

で、その感想はと聞かれますと「嗚呼~オシロカッタ」の一声だけなのですから、その中味の貧弱さが推測されてしまいます。何を読んだのかもまだ明かすことはできません。それは私の個人的なプライバシーになりますからね。なんて格好つけてますけど、あまりに幼い本ですから恥ずかしいなんてこともあるのであります。

天気予報の予言どおりに、「花冷え」なるものが襲ってきまして、私の体は思うように動作しなくなり、そのまま居間のコタツのなかに潜り込んでしまい、周囲には6チャンネルのオーディオのチャンネル・ノートパソコン・テレビ・専用テキストエディターポメラ・電気書籍Kindle・家電子機・iPhone・iPodクラッシク等々を配置して、まる二日間コタツ亀に化して読書三昧で過ごしました。
液晶テレビにはノートパソコンを繋ぎ、液晶テレビの音声は6チャンネルのオーディオに繋いであります。そうそうiPhone・iPodクラッシクもオーディオにつないであります。照明のリモコン2つもあります。こうなるとトイレに行く以外はほとんど暖かいコタツのなかで暮らすことができるのであります。

「恐怖のコタツ男の一生」なんていう小説を書いたら結構ベストセラーになったりするかも知れないな、などとチラッと思ったりしてね。

そうそう、テレビのリモコンの調子が悪くて困りました。パソコンとテレビを切り替えたり、テレビにぶらさげてあるVTR用のハードディスクを切り替えたりと結構重要な役割を果たしているのですが、時々だんまりを決め込んだりしてしまいます。
これは一体、リモコンが悪いのか、テレビ本体が悪いのかの判断がまったくつかないのであります。未だ何が原因なのかの究明ができずにいるのでありました。

コタツ男になって気がついたのですが、テレビそのものが既存の放送局の番組を見るというのは本当に少なくなっているということです。ネットのYoutubeを始めとした動画配信を視たり、音楽を聴いたりVTR・DVDを視たりと多用途になっているということです。お金があれば4Kあたりの高画質のものに買い換えたいところですが、今あるものでどこまでできるかを試すというものも面白いですね。(単に貧乏なだけ)

私はどうも気温が低いと極端に動作がにぶくなるということを発見した。時間とともにお日様が出てこなかったりしたら最悪であります、そのまま半覚醒状態で何日もまるまって過ごさなければいけないようであります。
お日様がでてくれば、しばらくじっとして体を温めます、その日の気温の状態にもよりますが、今の時期ですと、四肢が自分の自由になって動かさせるまで2時間ほどかかります。真夏であれば体温が上がりますから日陰で適温を保たないとこれも危ないのでありますけれども。
今年はちょっとばかし、寝床から這い出てくるのが早かったのかも知れない。

2016年3月23日水曜日

毎朝鍋を食します。これをナベツネという

毎日のように頭の悪さを自ら証明するような作文をウンウン唸りながら書いていると、たまにそのバカアタマでも気がつくことがあるみたいであります。ま、どちらにしてもたいした気付きではないのですけれども。
ブログの出だしにあまり日付に関連した事柄を書くと後で不都合なことが多々あるということを今更ながらに気づいた。
それというのも、ここのところ一日でブログを書き上げあるということが少なくなってきました。いつも途中で力尽き果ててしまって、尻切れトンボになってしまうのです。
そこでやむなく中断して更新を保留状態にしておき一日経ったあたりで、まだモチベーションの高い内に残りを付け足してアップするということが多くなったような気がします。
その時にハタと困ってしまうのが日付に関してあまり詳細に書き込んであると訂正のしようがなくなってしまうことがあるということであります。
もっとも、それだけネタが乏しくて、日付や季節を無理やり話題に載せなくてはならないという苦しい台所事情というものが現実にあるというのも確かなことでありますけれども。


そういえば昨日のブログはナベツネの話が尻切れトンボ状態であったのであります。この話を本日も続けたいと思います。前の話は昨日のブログをお読みください。これ以降は昨日の話を読み終わったことを前提に書き始めます。

以下の内容はあくまでの私の個人的体験であります。私には医学的知識などこれぽっちも持ちあわせておりません。ヘモグロビンエーワンシーなんていう用語にしても入院してから覚えたほどであります。
もうひとつ付け加えて置きますけど「今回限りで通院はもうしなくてもいいですよ。」とお医者さんに云われた時は我が耳を疑ったのです。
これまで糖尿病が治ったなんて話は聞いたことがありません。私はこの女医さんを基本的には信じてなかったので、独自に書籍やネットを駆使してたどり着いた糖質制限療法を密かに内緒で実行してインスリン地獄から脱出したのですから。
だから、おなしな話ですが「インスリンは打たなくていいです。投薬も必要ありません。」などと云われても俄には信じることはできなかったのであります。
あれほど糖尿病というわずらわしい病気から逃れたいと思っていたのですが、あっさりと治療終了を宣言されてしまうと、逆に不安になるものであります。
そこで、何ヶ月かに1回は血液と小水の検査だけは続けて貰えるように頼み込んだのでありました。
そして、その検査の帰り道に「回転寿司店」に寄って思いっきり炭水化物を食べるのであります。それだけが楽しみで次の検査までに節制を続けるのであります。私は決して糖尿病は全治するなどとは信じていないのです。だって本当にそんな話は聞いたことがないのですから。
糖尿内科にも通院していますが、合併症によって左目の網膜もやられてしまい、同じ病院の眼科にも通院しているのです。なぜか不思議とこたらの担当医師も女医さんなのであります。その〇〇先生に糖尿病での通院はしなくて良くなったと告げましたら、「うそ!!そんな事信じられない☓☓先生とは懇意しているから聞いてみるから・・・」と云われてしまう始末であります。そして次の外来診療の時に「本当だった。でも定期的に検査だけはやったほうがいいわよ。私からも先生に頼んでおいたから・・・」といった事だったのであります。

本日はここまで書いて力尽きてしまいました。実際は毎食時に打っていたインスリンを勝手にやめる時の決断や、最初の4ヶ月間の過酷な糖質制限食の実行等ネタは山程あります。糖尿病患者は現在10人1人で予備軍も含めると5人に1人だという数字を目にしたことがあります。決して私のやった療法を正しいとは思っていません。ただ何かの参考になればと思っています。
私自身ももう少し早くこのことを知っていれば、片目を潰したり、重体になって10日間も入院したりすることもなかったのにと強く思っているのです。

この続きは時々ネタに詰まった時などに書きたいと思っています。最初はまとまりのない断片的になっていますが、どこかの時点でもっとわかりやすいようにまとめられればと思っています。

朝から毎日鍋だから ナベツネ(糖尿病の参考までに)

今日の標題はかなりこじつけぽいな。この日記は昨日アップしようとして途中まで書いたのですが、いつものごとく息切れをしてしまいまして、一日遅れのアップとなってしまっています。ま、そんなことはどうでもいいか。

昨日、靖国神社境内の桜の開花宣言がでたようであります。実にヨロコバシイことであります。桜の花が終わってしまいますと、待ち焦がれた今年の春も一区切りついたという感じになります。
桜の花が散るのは呆気ないほどで、そこにそれぞれの人生に重ねあわせて生きることの儚さなどを悟って、しばし感傷に耽ったりもしますが、それも少しの間のことだけであります。
花の散ったあとは、桜の存在などは歯牙にもかけなくなるものであります。そのあたりはサクラも心得たもので気がついた頃には若葉を全体に茂らせて緑の中に潜むようにして、存在感をすっかり消し去ってしまいます。
次に存在をアピールするのは秋の紅葉の時期であります。それでもサクラは偉いなナぁと思うのであります。
そこの老いたジジイ、つまり私の事ですが、別に隠遁生活をしているわけではなく、たんにすっかり世の中から忘れ去られた瓦礫のようなものなのに、そのてんサクラは季節の変わり目に2回も表出して自己アピールして人びとを感動の渦に巻き込んでしまうのですから。

今週は昨日「春分の日」の振替休日ということで、一日分働く日が短いようであります。毎日が日曜日のような私にとっては良いのか悪いのか、さっぱりわかりませんけども。
天気予報では暖かいのは明日まで、明後日からは「花冷え」となりますとアナウンスしていました。

そうかすっかり「花冷え」という言葉を忘れさっていました。これがなかなか油断ならないものがありまして、花見だと称してドンチャン騒ぎなどをいたしますと、酔っ払って油断して風邪をひいてしまうということをやってしまいます。ま、それは自らが招いた災いですから仕方のないことであります。二日酔いだか風邪からくる頭痛なのか、その二つが重複したものかの判断がつかずウンウンとうなる羽目になります。ザマアミロ

ナベツネというジイさんがいたけど、最近の私は朝ナベツネというものにこだわっているのです。朝ナベツネに凝ってると書きそうになったのですが、凝ってるというのはちょっと違うようで拘っていると言い換えたのですが、これもまたちょっと違うようでありまして、ほぼ毎朝鍋料理を食しているというのが正確な表現だと思います。
それは先ほどのナベツネとはまったく関係がなく、毎朝の食事は鍋料理にしているということであります。

2年ほど前のことでありますが、長年放置していた糖尿病が重篤化してしまいして、インスリン注射を食事前に6単位と遅効性のインスリン注射2単位を寝る前に打たなければならない状態にまでなりました。それに伴って血糖値を食後に必ず測り記帳しなければなりません。
私の入院した病院は食事制限について格別うるさい事をいうわけではなくて、私が普段食べているのとほとんど変わりのないものでありました。朝食などはむしろ多いぐらいのものでありました。
しかし、食事ごとにインスリンを打ったり、血糖値を測定するというのはかなり煩わしいものであります。これを死ぬまで続けなければならないのかと思うと暗澹(あんたん)たる気持ちに襲われてしまいます。そこでなんとかしてインスリン攻撃から逃れる手立てはないかと散々足掻いた結果行き着いたのが糖質制限食事療法というものでありました。詳細はおいおいこのブログに書いて行きたいと思っています。
尚、糖尿病や糖質制限食事療法についての記述はあくませも私個人の体験に寄るものであって、なんら医学的根拠があるものではありません。あくまでも私の個人的な問題であることを明記しておきたいと思います。今後もこれらのことについて書いた場合はしつこいぐらいに上記の注意書きを添付しておきたいと思います。

糖質制限食というのは、糖分を摂らなければいいのだけの話だと思うかも知れませんが、これがやってみると、かなり難しいものであります。もちろん最初にやらなければいけないのは、あからさまな糖分の摂取をやめることです。
たとえば、コーヒーに砂糖を入れるとか、紅茶に砂糖を入れるとかは即刻やめなければいけません。もちろん、あまーーーい缶コーヒとかコーラとか、日本酒・ワイン等々醸造酒は決して口にしてはいけないのであります。
なかでも一番シンドイのは炭水化物の摂取を止めるということであります。私は生まれてこの方炭水化物だけで育って生きてきたようなものであります。朝ごはんはもちろん米をいただきます。昼は結構麺類が多いです。夜は呑みにでかけて仕上げはラーメンであったりします。これを一気に止めろといわれますか、それはなんというご無体なお言葉なのでしょうか。
と、いうことでここで3たび力尽きてしまいましたので、続きは後日ということにします。

2016年3月21日月曜日

連休は映像づけ・・・

いつの頃からだったのだろうか、はっきりと覚えているわけではないのだけど、それはたぶん十数年も前の頃からだったと思う。
別段桜の花とは限らないのだが、早春に咲く花々を目にした時に

「今年も、こんな美しい花を愛でることができた、来年も観ることができるだろうか、できることなら来年も同じ花を観てみたいな」

と感じるようになりました。
そう感じるのはその時期、その場限りのことであって、それ以降はそんな風に思ったことすら、すっかり忘れ去ってあいも変わらね生活を続けることになるわけであります。
それは、長い冬に別れを告げるひとつのシグナルであり、寒さの厳しい灰色の世界の中で、小さな花びらを発見したときに、決まって、あの思いが浮かび上がってくるのであります。


今日は春分の日の振替休日ということで、連休最後の日であります。土日は仕事をする気力もなくずるずると、映画を観て過ごしてしまいました。以前には映画を観るとなると、地上波で配信されている映画を録画しておいて気が向いた時に観るだけでありました。
次に登場してきたのが、Gyaoというネットの無料配信サービスでありました。その前にレンタルビデオなども利用しましたが、これは案外面倒で息子がレンタル店を利用する時に便乗して借りてもらったりしていました。そうそうサービス名は失念してしまいましたが、宅配レンタルサービスというのも一時期使っていた覚えもあります。専用の返却すのは確か袋に入れて郵便ポストに入れるだけで良かったのだと思います。しだいにそれすらも面倒に思えていつの間にか使わなくなっておりました。
レンタルビデオを利用するのも面倒だと感じるのですから、映画館に足を運ぶというのはもう選択肢にはありません。劇場で観る映画は別格であるのは知ってはいるのですが・・・・。最後に映画館に足を運んだのはいつの事だったのか覚えてすらいないのです。

これまでの動画供給媒体に加えて最近は新たにAmazonの動画配信が加わりました。これがなかなか面白いのであります。始めの頃は洋画ばかり観ていたのですが、最近は日本のドラマ・映画が主流になってきました。
それでも、あんまり古い映画は本人もかなり古色蒼然としているに係わらず、肌に合わないような気がして敬遠してしまいます。現代の現在の邦画はなかなかいいなと見直すようになってきました。ただ、だからといってわざわざ映画館に足を運んで2000円近くの料金を払って鑑賞しますかとなりますと、それは別問題であります。
それは無料であり、居間の大型のディスプレーで5チャンネルの大音声であり、ふんぞり返って、タバコを吸っても誰に注意されるわけでもなく、しかも手軽にネット配信されているから観ているのであります。

このブログの過去ログを調べてみれば、いつ頃からAmazonビデオを見始めたのかはっきりすると思いますが、利用し始めてから、かなりの数、おそらく100本以上は観たと思います。
見始めますと24時間、48時間と連続で観てしまいます。もう、やめられない止まらない状態になってしまいます。
その昔、三文映画館で何本も安い料金でやくざ映画を見続けた思い出が蘇ってきてしまいます。本当は鑑賞した映画ひとつひとつの感想文を書いておけばいいのでしょうけれども、いつも「ああ、オモシロかった」で終わってしまっています。たぶん一生書けないだろうし、書かないだろうなとは思います。

そうそう、ひとつだけ簡単に感想文を書いておこうと思います。それはアメリカドラマで「Good Wife」というやつであります。これには、激しくハマりました。
以前に「24」にハマったと同じかそれ以上であります。「Good Wife」は信じられないほどの長編であります。
確かシーズン8ぐらいまで公開されており、ひとつのシーズンに20編ほどあり、1ドラマが50分ほどあります。この説明だけでいかに長いかご理解いただけるものと思います。
これだけのドラマを仕上げる才能の数々・資本力・構成力等々にアメリカの持つ底知れないパワーを感じてしまいました。
主に裁判ドラマでありますが、そこに盛り込まれているのは家族・政治・社会と盛り込まれています。あまりの面白さに、最初からもう一度観ようと挑戦しましたが挫折しました。

邦画が面白いと書いておきながら、まったく邦画に触れないでアメリカのドラマを賛辞しているのですから相変わらずのバカですね。

地方で視聴できるのかどうかは確認できませんが、テレビ東京が月曜日から金曜日までお昼の12時40分から放映しているアメリカの連続ドラマがあります。
これは録画しておいて暇な時に観ているのですが、当たり外れはありますが、総じて面白いものが多いと感じます。
これまでの私の概念からすると映画の下に位置するのがドラマだと思い込んでいたのですが、今は決してそんなことはなく、むしろドラマのほうが面白いように感じてしまっています。
うまく言えないのですが、ハリウッド的なただ大げさな舞台仕掛けではでに爆発させてしまうよりは、より細部にこだわっており、心理描写にも優れているような気がしているのであります。

そんなこんなで、最近はドラマ・映画・アニメ等の映像に時間を取られているものですから、読書の方はほとんどやっていません。かろうじて、宮沢賢治選集を最低1ページだけは読むようにしています。今は最後の「風の又三郎」の部分にきているのですが、なかなか読み進められないでいます。宮沢賢治は私にとっては超難解なシロモノであります。恥を晒してしまいますが、「銀河鉄道の夜」なんてのはちんぷんかんぷんでただ字面を追ったっていうだけの話でありました。

2016年3月19日土曜日

もう終末だ。ちゃうちゃう週末だ

からかうように暖かく包んでくれたり、いきなり後方斜め46度30分あたりから寒さで襲って震え上がらせるなんていう悪ふざけを繰り返してきた「春」もとうとう遊び疲れたのかも知れません。
今朝の室温は19℃と昨日よりもかなり暖かいです。マルビーな私は真冬でも室温の設定は20℃にしてあります。それで寒かったら着こめば良いという単純にして合理的な思考で暮らしております。
それを考えますともう云うことなしですね。
それはそうと、日曜日が春分の日とかで明日から3連休になるんですね。毎日が日曜日のような私にとってはほとんど関係ないのですが、なんとなくウレシク思ってしまいます。もっとも「春分の日」基本的になんなんだかは理解はしていないのであります。ちょっとググればいいだけの話ですけれども、理由はなんでも休みなんだからそれでいいじゃないですっなものであります。
そうそう「春分の日」には墓参りをするらしいですね。そうなると、八柱霊園あたりはメチャ混みになるから心のどこかに留めておかないといけないかも知れないですね。とは云ってもどこへも出かける予定はまったくないので関係ないですけどね。

若い時は、そのあたりに咲いている花々が目に入ってくることはない。まして雑草のような日陰にひっそりと咲いている小さな花などは気がつくこともない。「ほら、あの白くて小さな花、きれいやね」などと注意を促されても、「ほんとうだ」などと生返事をするだけのことである。
不思議なことに歳を重ねるにしたがって花の美しさに気がついてくる。そのあたりの路傍の雑草の花をみても感動するようになる。いやむしろ名も無き花のほうにひかれるようになるのです。

人間というものは若いというだけで美しいものなのだと思います。男も女も若いというだけで輝いています。自らがエネルギーに溢れ、美しく輝いているのですから、小さなとうでもいいような花に目がいくはずはないのです。それがあたり前のことなのです。
年寄りは、植物や花々を愛でるように若い人が好きなのです。青年を眺めているだけで、ほっとします。力を貰えるような気がします。もちろん若さゆえの危うさも、不安定さもそこに感じてはいます。だってそれは自分がとおってきた道なのですから、そんななんでもかんでも全て包み込んだ目で見ているのです。
だから旅するなら、若い時がいいのです。旅先で困った時はそこらじゅうの年寄りが寄ってたかって助けてくれますから。
私のように老いてしまったら、それはいけません、汚いもの、厄介なものを見るようにちらっと横目で一瞬だけ睨むだけで無視されてしまいますから。

2年ほど前に糖尿病の合併症を発症させてしまい、目の網膜を傷つけてしまって以来、ほとんど自分で車を運転することが無くなってしまった。
だから最近は周辺ガソリン価格というものがわからなくなっている。数日前に知人のブログによると場所によっては100円を切るのも出ているそうです。
一時期とは比較にならない安さであります。これほど安くなるとはまったく予想をしていなかったで、驚いています。ここ数日は、それに加えてじわじわと円高が進行していて110円近くまで上がってきていますから、ひょっとしてもっと安くなるかも知れませんね。車中泊で旅するには最高のタイミングなのですが、世の中はそうそう旨くいくものではありません。
何年か前に独りで北海道を一月ほどうろついていた事がありますが、その時のガソリン価格が150円前後だったことを思い出しますけど、別段それで旅をヤメようなどと思ったこともないし、その為に後々借金に追われて困ったなどということも無かったので所詮その程度のことなのでしょうね。

最近は作文を書いていても根気が無いようで、昨日アップしようかと途中まで書いていたのですが、なんだかんだしているうちに夕方が訪れて「時間だ!晩酌の時間だ!」ということでやりかけの仕事も、書きかけの作文も委細構わずシャットダウンして晩酌に突入してしまいました。
こう書くとよほどの酒呑みなんだななと思われるかも知れませんが、それは随分昔のことであり、今は少量の焼酎を大量のお湯で割って、ちびりちびり舐めるようにしての晩酌であります。晩酌は何かから逃げるための口実にしか過ぎないのかも知れません。
久しぶりにクラプトンのブルースが流れていました。あれ?このアルバム結構いいじゃないと思ったけれども、先に書いたように眼の調子が悪いのでiPodの小さな小さな文字を読むのが面倒で確認することもなく、そのままです。そのうちに気が向いたら調べてみようなどと酔っ払った頭で思ったけど、たぶんなんにもしないと思う。

2016年3月17日木曜日

とうとう性悪女も根負けしたのか?

今朝はPCでの作業に気を取られていて、7時近くまで雨戸(シャッター)を開け忘れていた。何気に玄関のある廊下が異常に明るいのに気がついて、おっとり刀で雨戸を開けた。開けると同時に東の窓から強い太陽光がまるで意志を持っているかのように踊り込んできた。
こんなことは今年になって初めてのことではないかと思った。いよいよ春という季節は自分のポジションを盤石なものにしようと動き出したのではないかと思った。
テレビでは「春本番」とか「ぽかぽか陽気」とか「お花見情報」等々の毎年使い古されている言葉が踊り続けるようになりました。

いよいよ春本番であります。年寄りにはありがたい季節であります。日向ぼっこも昼寝もお散歩も気持ちよくできる季節であります。

歳を重ねてからの時間の経過は自分でも驚くほど早くて、時には愕然とするほどの驚愕を覚えることすらある。これまでの自分時間概念では、精神的にとてもついていけないことを感じることが多くなっていると思う。
こうなれば、自分で勝手に自分時間というものを決めて、それに沿って暮らして行く他はあるまいと思い始めた。普通の人、特に若い人の2倍から3倍ぐらいが自分にとっての適性時間ではないかと思う。他人が一日24時間で生きているのであれば、私は一日48時間、間隔で生きてちょうどいいように思われる。それで足りなかったら、さらに3倍の78時間を一日にすればいいのではないかと考えている。それで誰に迷惑をかけるわけでない立場に私はいるのだから。

などとしょうもないことを妄想していたら、昼過ぎには得意の妄想でも錯覚でもなく室温ぐんぐんと上昇しつづけ、最初上着を脱いだりしていたが、掃き出しのサッシを半分あけたりと、終いには四方の窓を全部開け放ってしまった。
こりゃあどうしたことだ。この暖かさ、いやこの暑さは本当に想定外でありました。四方の窓を開け放しても簡易温度計ではあるけれどもすでに25℃を指していました。
「ふ、ふふ、ここまでくればもう大丈夫だ。」一体何が大丈夫なのかわからないが、気分的そうなのだから、それでいいのだと思う。

3時近くになったので買い物を兼ねた散歩にいくことにした。そこでいつものように準備を始めたのだが、そこでハタ気がついた。それはこの陽気に分厚いコートではどうにも格好が悪いし、実際に暑くてかなわないだろうということであります。
これまでは。部屋の中でひどい服装をして仕事らしきものをやったり、ひくひく生活をしていたのだが、買い物ぐらいだったら、そのままコートなり上着を羽織ればそうそう中味はバレることはなかったのであります。
気がつかなかったな、暖かくなればそれなりに服装にも目を配らなければならないことを。にわかにそんな事に気がついても春に着るものなんて用意しているはずも、自分の衣装はどこにしまわれているのかを知る由もないのでありました。
仕方がないのでもう少し涼しくなるものを待って、昨日まで着用していた厚手のコートを羽織っていくことにした。
ちょういと大げさな物言いでありますが「人生いたるところに青山有り」でありますね。思わね伏線におたおたしているほかないのでありました。

2016年3月16日水曜日

ある日の買い物情景

昨日は暖かくてなんとシアワセな一日だったでしょうか。この陽気がまだ続きますようにと祈るのでありました。ただこの温度は季節が推移する毎に徐々にあたりまえになっていきます。それが常温であるとなんの感動もなく不幸を感じることもないけど、格別シアワセを感じることもなくなるのでしょうね。そのうちにこの暑さはなんとかならないかなあ、なんて愚痴のひとつも溢れてくるものであります。
ここ3日ほど寒さと雨で中断していた買い物散歩に早速でかけました。なんだか最近小学生の絵日記のような作文になってきたな。ま、それでいいのだ。素人がただだべっている作文なんですからね。
毎日のように同じスーパーに買い物に行っていると、自然買い物をするものが決まってきてしまいます。これも季節による気温のようなもので慣れてしまうと何の感動も呼ばないものだと気がつきます。
スーパーに一人で買い物に行き始めた頃は、誰も見ているはずもないのにどこかに気恥ずかしさを感じて、結構勇気のいるものでありました。
考えてみれば一人で飲食店に行くのも好きではなくて、ラーメン屋とか牛丼屋でも一人で食べに行くのなら、自宅でカップ麺でもす吸ったほうが気楽でいいやと思うやつなのでありました。そのカップ麺を買いにコンビニに入るのも本当は苦手なのでありました。
最近はだいぶ慣れてきましたが、買い物の量が少ないというのもとても恥ずかしいように思えて、必要でないものも余分に買ったりしていました。例えば弁当ひとつだけを買うということができませんでした。これもおかしな感情ですし不必要な思い込みであります。
それともうひとつダメだったものがあります。それはレジでの精算の時に財布から1円や5円を始めとして小銭を出してきっちりと精算するということができませんでした。財布を持ってレジの女の人が「合計2432円です」なんて云われてから「エート、エート」なんて唸りながら小銭を探すなんてことができません。後ろで待っている人にも悪いと思うし、レジ係りの人にも「何をこのジイさんはモタモタしてんだ、早くしろよ、こっちは忙しいんだからさ」なんて思われているのではないかという思いが頭をよぎります。
ちらっとでもそういうことが頭に浮かんだ途端に自分の顔が朱に染まるような気がしてきます。実際に赤らめているのかも知れませんけど。そんなことならスバヤク3000円を渡してお釣りを待っていたほうが精神的にはかなり楽なものがあります。
お釣りを貰ったら貰ったで、そそくさと金額を確認することもレシートと一緒にポケットにつこんでしまいます。札は札で札入れに入れ、小銭は小銭入れに分けていれるぐらいの時間は待ってくれるはずなのに、それすらできない私ってのはいったいなんなんだろうかと思ってしまうわけであります。

最近どうでも良いようなことをですね、細々とこれでもかと書くのって結構面白いなと思っています。私の昨日の買い物を題材にしてどこまでひつこく書けるのか挑戦してみたのですけれども、結果的には失敗ですね。
やはり、力不足がありありと出てしまっていますね。こういうものはいくら練習してもうまくはなりませんね。持って生まれた天性のようなものがあるような気がしてなりません。同じ場面の情景にしても力のある人が描写しますと、思ってもみない切り口と展開で読書を惹きつけてやまないものだと思います。
でも、どうでもいい場面をクドクドと書き連ねていくってのは結構面白ものがありまして、時間がとれればまたやってみたいと思っています。

2016年3月15日火曜日

なんでもないことが

日の出の時間が少しずつではあるが早くなってきています。最近ではとうとう6時前になりました。6時前となると雨戸の代わりになっているシャッターをあげるのに躊躇いの気持ちが生まれてしまいます。
シャッターの開閉に伴う音というのは案外大きなものであります。あまり音がでないようにそろそろと開けるのも主義ではないような気がして、いつしか日の出とともに雨戸をあけるという習慣を私のなかから消してしまったのであります。
雨戸を開けて青空が広がっていたのはいつの日だったか思い出せないぐらいにここ数日なかったことであります。濃い霧が立ち込めていたり、どんよりと思い雲が零れ落ちそうになっていたり、実際に冷たい雨がジトジトとたえまなくこぼれ落ちていたりであります。春先の雨は余計に冷たく感じるものでもあります。

特に外にでて仕事をするわけでもないのに、最近やたら天候のことが気にかかってしょうがない。なかでも気になるのは温度であります。
もう少し暖かくなったら日の出散歩を生活の中に取り入れようとも思っているし、家庭菜園もやってみようとなどと盛り沢山な計画を立ててはいるのであります。
それもこれもちょっとでも寒さを感じるようでは外にでる気はまったくおきてこない。
「あーるき始めたみおちゃんが、おんもへでたいとまっている」という完全にみよちゃん状態になってしまっているのであります。

しかし、昨日の天候は最悪でありました。いつから降りだしたのかは知らないが、気がついた時にはジトジトと氷雨が降り注いていた。そうなると完全に外にでる気力は雲散霧消になってしまい、買い物散歩も中止となりました。
散歩を毎日続けるというのは難しいものであります。少なくても私にとってはということでありますが。
自分で決めたことは何があってもやり抜くなんていう気持ちはどこにも持ちあわせていないのです。散々これまでも散歩を断続的にやってきましたが1年以上続いたことはありません。もっとも半年以上続いたということ事態が私にとっては奇跡に近いものがありますけれども。
散歩を中止する理由はすぐに見つかります。不思議なくらいにたくさんの理由が湧出してくるのであります。
であるならば、散歩をやる理由なり目的を明確なものを持っていないと続けられないのではないかと思い、散歩をすることが目的ではなくて、買い物をすることが目的であって、その結果散歩をやっていたという風に持っていったのであります。
これは毎日やるというのが原則なわけでありますから、余分なものはなるべく買わない、買いだめなんてものは絶対にしないという事にしていたわけであります。そうしないと毎日のように買い物に行く理由付けが無くなってしまうからなのであります。
さて、ここで昨日のジトジト雨に戻ることになります。そんなものですから散歩は中止となりました。最近は朝ごはんは別にして昼食および夜の晩酌のつまみは自分で用意して食べるようになってしまっていました。次の日の買い置きなんてものは一切やってなかったものですから、こういう場合にはたと困るのは食事の準備する材料が何もないという状況になってしまいました。にわか料理人というものはこういう時に困るわけであります。料理の基本技術を抑えていないものですから、冷蔵庫や床下収納の食料庫を点検してアドリブで料理を作ってしまうということができないわけであります。ま、たった2回分の食事なわけでありますから、冷蔵庫を探しまわってなんとか凌いだわけではありますけれども。
男の俄(にわか)料理人というのは、まずレシピから入るわけであります。ネットなりレシピ本をみて、どんな材料が必要なのかを調査して、その材料を買い物にいくところから始まるわけであります。これが案外お金もかかるし、時間もかかるものなのだと気づくのはかなり後になってからの事であります。達人というものはちょちょと冷蔵庫を確認にしただけですぐに料理に取り掛かってしまい、調理時間もかなり短いのに私がどう逆立ちしたって敵わないような逸品を、さも当然なような顔をして出してくるのですから・・・・。

話がいつものごとく脱線してしまいました。そこで雨戸になっているシャッターを7時近くになって勢い良く開けましたら、この数日見たこともないような青空がひろがっているではないですか。
たったそれだけでウレシクなってきます。気温もそれほど上がっていないのにその瞬間から春の暖気に包まれてしまっているような気がしてくるから不思議であります。
今日はそれだけで、満足してしまいました。こういうなんでもないことがシアワセというものなのでしょうね。きっと

2016年3月14日月曜日

私のできることは、せめてテレビの特集番組を観ることぐらい

昨夜はめずらしく晩酌もかなり早い時間に終わってしまって、格別やることも見当たらなかったので9時ちょっと前に寝床に入ってそのまま寝入ってしまった。
目覚めて薄暗闇のなかにぼんやりと見える時計を見上げるの5時40分あたりを指している。これは一夜明けての翌朝の5時40分なのか、それとも夕方の5時40分なのか、それとも電波時計の電池が無くなってしまって、時計そのものが狂ってしまっているのか、瞬時に判断できないまま数分の時間が過ぎ去った。
習慣というものは恐ろしいもので、いつも9時前に就寝するということはなく、それでいて目覚めるのは午前3時前後なのであります。これでは絶対的に睡眠時間は足りてないように思うのだか、一日のなかでちょこちょこと朝寝、昼寝、夕寝などを挟み込んでいるので全部を足し算すれば人並みの睡眠がとれていることになるのです。
それが夜の9時に眠りについて6時近くまで途中一度も目がさめることなく眠りこけていたことが今朝の目覚めの戸惑いにつながったわけであります。
週のはじめなのに、最初から生活のリズムが狂ったような状態で始まったこと自体に少しの不安を感じたのですが、それ以降朝寝をする必要も感じることもなく、おそらく昼寝、夕寝もしなくても済みそうであります。これが本来のまともな睡眠のあり方に違いないと良い方向に無理やり思うことにしての月曜日であります。

3月11日を中心にして東日本大震災の特別番組を中心にして見られるかぎり見続けました。日曜日の夕方頃まで見続けて精も根も尽き果てて、精神的にはボロボロな状態になってしまいました。この5年の間はマスコミの震災報道をたんに聞き流していたに過ぎませんし、決して自分のこととしては捉えてはおらず、やはりどこまでも他人事であったのです。
また、無意識にがっちりと組み合って受け止めるのが、心のどこかで懸命に拒否していたのかも知れません。
だからこの時期に毎年放映される3.11の特集的な番組は敢えて見ようとは思わなかったし、実際見てもいなかったのです。
テレビ局を始めとするマスコミはたんに視聴率や売上を稼ぐためであったら、その材料はなんでもいいのだし、それが同胞の不幸や悲しみであってもセンセーショナルに仕上げて流せばある程度の視聴率は稼げるぐらいしか考えていないのも確かなことですから。
あれから、5年も経ったのか5年しか経っていないのかはわかりませんが、その5年の間に私の身にも自業自得的な病が襲い、健康を失うことの悔しさと老いていく悲哀を存分に味わいました。そのことが自分の心境に一番大きく影響をしていることが容易に想像がつきます。
昨年までのひねくれた心は、いつしかどこかに雲散霧消しており、できるだけ被災者の言葉を、その記録を真摯に向きあって聞こうと心がけました。

あまり旨くはいえませんが、それがたまたま被災者にならずに済んで、この5年間なんの苦労もせずにぬくぬくと生きてきた私の努めだろうと思ったのです。せめて、せめてテレビに映し出される姿や証言の数々を黙って聴くべきだと。
それをやったからって、別に世の中が、日本が変わるわけではありませんが、見れば見るほど聞けば聞くほど、涙が溢れて出てきて、その重さに耐え切れなくなってしまいます。
冷暖房完備の暖かい部屋で、ふんぞり返ってテレビを見て泣かれても・・・・・・。そうは思いました。なんども思いましたが、今の私にできることせいぜいそのぐらいの事しかないのも確かなことであります。
そのような欺瞞に満ちた行為であって、最後はあまりにもその震災のもたらしたことの重さに、正直これ以上はもうたくさんだなと思っていたら、日曜日を境に手のひら返しのようにいつものバカ番組を垂れ流すようになっておりました。これでいいのかも知れない。なんとなくテレビ局の手のひら返しに安心している自分を見たりしたのです。

こんなフザケタ奴のフザケタ行為であっても耐えられなくなってしまうわけでありますから、簡単にマイナスからの出発だなんていいますけれども、出発ってなんなんでしょうか。勝手に出発なんて・・・・・。

2016年3月11日金曜日

「せやみ」の意味がわかった

母は郷里山形県村山市の小さな村で生まれ、そこで育ち、結婚し、そして今静かな老後を送っている。
そんな母の言葉はテレビやラジオの影響を多少受けてはいるが、生粋のズーズー弁である。私というバイリンガルな通訳を介しないと県外の人びとにはほとんど理解できないのである。もちろん私の家族も、ほとんど彼女のいわんとすることを理解できないでいる。だから各自曖昧な笑顔を浮かべて聞き流したりしているのであります。

私は高校を卒業してまもなく、石をもて村を追われた人間である。(ここはかなり嘘が入ってるけど流れからしてこのほうがしっくりくるのだ)その私が飛んで来る石を避けながら首をすくめて暮らしていたころ、母は私の怠惰な生活ぶりを指して「せやみだなー」と良く口にしていたことを思い出した。たぶん怠け者を指しての蔑みの言葉であろうぐらいのことは理解できたが、深くその意味を知ろうなどとは思わず、そのまま聞き流しており、郷里を背にして都会に逃れると同時にそのふるさともその言葉も恩讐の彼方に忘れ去っていったのでありました。

最近はやたらセンテンスが長くなっていることに気がつくが、ま、これでいいのだ。

さて時は一転して現代にワープする。病み上がりのリハビリのひとつとして、生活の中に家事労働を積極的に取り入れるようにして、もう半年ぐらいになるだろうか。そしてその家事労働をやり始めた頃ににわかに出現してきた言葉が「せやみ」である。
食器洗いを習慣づけようと奮闘している時に、もじどおりに背中がイタイのです。腰のちょっと上の左右の背筋が痛むのです。
机にしがみつくだけの生活をウン十年も続けてきた。その結果立っていることが不得意になってしまっているのです。
洗い物はたんに食器洗っただけでは終了しない。それをきれいに拭きとり、食器棚の所定の位置にきっちりと収納して終わるのです。ま、このあたりはどうでもいいのですが。
全部の食器を洗うまで立っていられないのであります。それこそ背が病んでしまって、洗剤で洗ったら一休み、全部をすすいで一休み、布巾で水滴を拭きとって一休み、食器棚に収めて、「ふーっ、ようやく終わった」とタバコに火を点けて本格的な休憩といった具合であります。

方言を馬鹿にしてはいけないな、それなりの意味があるのだなとこの時しみじみ感じ入ったわけであります。
最近はさすがに半年も続けてきた結果、食器洗いでのインターバルは少なくなってきました。ただまだ一挙にというわけにはいかないようであります。

2016年3月10日木曜日

まっこと裏切りの季節なのだ!

3月の陽気ほどあてにならないものはないですね。時に暖かくしておいて、いきなり後頭部を鈍器で殴りつけるような行為を平気でやります。
「いきなりなにすんだよ、コノヤロ!」なんて怒鳴りつけても「めんご、めんご、イタカッタ?ごめんね、ふふふ・・・」
奴はひとつも悪がってなんていないのさ、一度裏切った奴は何度でも裏切るのは古来からの真理であります。
そして間髪をいれずに、「また4月上旬の天気であります」なんていうことを気象予報士のお姉さんもしくはお兄さんの口を借りていわさしめるのでありました。
人びとの油断が絶頂に達したころをみはからって、三度、四度とくりかえすのは、半島や大陸の人びとと同じなのであります。孫子の兵法を「平気で嘘をつくことだ」なんて曲解して実行するのも同じ輩なのでありました。
あれ、話があらぬ方向にいきそうになりましたけれども、とにかくこの時期は裏切りの季節なのであります。

関東の春は年があけたあたりからはじまります。最初は梅の花がちらほら咲き出して、すこしずつその辺りの花々が咲き始め、桜の花が頂点になり、うかれはしゃぎまわった後も次々に花が咲いていきます。
そのてん雪国の春は遅い。じれったいくらいに遅い。その代わりに野山に雪がなくなった頃を見計らって、それこそ「満を持した」という言葉がぴったりとあてはまるように、桜だろうが梅だろうが、梨だろうが、桃だろうが、さくらんぼだろうが、それこそ一斉に花開き、ヨロコビを国土いっぱいに咲き誇るのであります。
このあたりのメリハリが好きなのであります。ただそのような光景を目にできたのは五十数年前のことなのが、悔やまれるところではありますけれども。

2016年3月8日火曜日

しだれる梅にしだれる桜・・・しだれる男なんていうのはいけませんね

6時ちょっと過ぎにシャッターをあけると、周囲は激しくけぶっていました。近くの日枝神社の木々も濃霧の中にうっすらと浮かび上がっており、幻想的な様相をていしておりました。
それでも3月のはじめとは思えないぐらいに暖かく、室温は20℃ちかくもありました。寒いよりは暖かいほうがずーっといいし、冬の間に縮こまっていた細胞がそれぞれニカニカと伸びをしていることを感じます。

しばらくの間ブログを休んでおりました。別に体調が悪かったこともないのですが、なんとなくこのまったく中味のない空疎でヘタクソな文章を晒し続けることがとてもつらくなってきたからに他なりません。
だからブログをサボっていたからといって、誰にも迷惑をかけるわけでもないし、本人の精神にいちじるしく異常をきたすなんてことはまったく無かったわけであります。
誰にもなんの影響を与えない、空疎なシロモノなのだから、別段なんの考えもなく書き散らしても誰かに「厳重注意をされる」なんてこともないわけでありますから、再び空疎な言葉を垂れ流していくことにしました。

いささか時を悦してしまった感がないわけはないのですが、買い物途中でみるしだれ梅というものがあります。だいぶ白い花は落ちてしまっていますが、まだまだなんとかの深情けよろしく咲き続けております。
もうすこししますと「しだれ桜」なんていうのが登場してきますね。ここ市川では真間山弘法寺の境内に、その存在感をどーんと現して咲き誇るのが「伏姫桜」という銘木であります。しだれ桜とはいいますが、かなりの大木でありますから、それこそ姥桜と呼んでも失礼にあたらないぐらいのお年を召しているようであります。
どうも「しだれる」なんていうのは女の人に似合うのであって、しだれる男なんてのはいけません、やはり男というものは、時としてしだれたくなるのではありますが、そこでしだれてはいけません。男にはやはり直立不動というものが似合っているものなのであります。