2011年3月29日火曜日

確実に春を感じることができた

 縮こまっていても何もはじまらないと思って、昨日からカメラを片手に散歩をはじめた。自宅の周辺をチマチマと歩くだけだからさほど感動するといったことはない。いずれも見慣れた風景だけが展開されている。せっかくカメラを持っているのだからと撮り始める。帰宅してPCに取り込んで大きな画面で見てみると、10枚に1枚ぐらいは、おやっていう写真がある。
 ふーん、見慣れた風景であっても案外撮ってみると違った感じに写るもんだとちょっとだけ感心する。カメラを持って何十年となるが、頭が悪いからシボリだのシャッタースピードだのがさっぱり理解できない。だからいつもバカチョン状態でシャッターを闇雲に押すだけである。
 テレビからは本当に情報は得られないということを痛感した。相変わらずのバカ番組を垂れ流している。見るだけ無駄ということを今回ほど思い知らされたことがない。それにしても不思議なのは番組を作っている方々は、私よりは学歴も偏差値も相当上で頭が良いはずなのに、なんでこうもくだらいものしか作れないのだろうと思う。
 それにしても、どうにもわからないのは、どうしてここまで原子力発電に固守しなければいけなかったのだろうかということです。いくら利権の構図があるといっても政官民が強固につながり、ひたすら原発の道をひた走ってきた。危険なことは充分に理解していたと思うのだけれども。たんなる利権だけでここまで自分の国を危険に曝すことを考えるだろうかと。その背景を知らなければたんに感情にまかせて大声をあげるのは危険だと思う。最初に推進してきた人たちはそれなりの年齢を重ねて息子娘孫やひ孫までいる人たちである。誰だって自分の肉親は守りたいと思うのが普通だと思う。そんなものにも代え難いなにか大きな理由があったのだろうか。
 自然は素晴らしい、春になれば誰かに命令されることもなく、美しい花々を咲かせて人間を和まさせてくれる。今日は朝から暖かかった。空も透き通るような青さだ。でも3月11日以降の空はこれまでの空とは明らかに違うことをみんな知っている。草木は此の地から逃げることはできない。そして此の地に住むほとんどの人は移動手段を持っていてもこの地から逃げることができない。
 「逃げられる人は逃げなさい」と書くとそんなことを書けば風評被害を起こすから書くのをやめろというメールが届く。この風評被害ってのがよくわからない。一挙にパニックになるよりも、この混雑する都会を離れ少しでも西に行ける人は早めに移動したほうがいいじゃないかと思う。都会が閑散としてくれば食料も電気も水も使う量が減ってくるのだから。まだまだ余裕のある関西方面に速やかに移動すればいいだけの話だ。
 計画停電で仕事もままならないのであれば、仕事場を関西に移動させればいい。東京一極集中はいつか解消しなければいけない問題だったのだから。このさい首都機能の半分を関西や九州や四国に分散すればいいだけの話だ。

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