何を思ったのか、一番上のあんちゃんがカレーを作り始めた。人間そういう時もあるよな。日がな一日コトコトと鍋を炭にかけて煮物をしていたい時なんてのはあるよね。
秋田で百姓の真似事をやっていた時に急に料理が作りたくなって日がな一日料理を作っていたことがあった。あれって今考えれば最高に幸福な一日だったのではないかと思われて懐かしい。
娘の学校はオタクのメッカである秋葉原にある。電気街口を降りたらたった3分の高層ビルのなかにある。あの場所は昔青果市場があってそこが移転して、しばらくの間空き地になっており、バスケットボールのコートが作られており、深夜まで若者が遊んでいたところでもあった。
私は神田で呑んでも御茶ノ水で呑んでも帰りはかならず秋葉原の駅まで歩いていってそこから黄色い総武線に乗って帰宅していた。
会社の最寄駅は御茶ノ水か神田のほうが近かったのだが、わざわざ秋葉原駅を使っていた。一日一回は秋葉原の街を通らないと気がすまなかったのであります。
今もラジオ会館ってあるのだろうか、そのラジオ会館の3階だか4階にNECのパソコン部隊の出先機関のようなビットインという店があり、何か目新しい情報はないだろうかと3日と開けずに通ったものである。でもそれはOSがMS-DOSの時代まででOSがWindowsになってしまってからはまったく通わなくなってしまったのだ。Windowsであれば別にNECのパソコンでなくても一向に構わないわけであり、それ以降NECのパソコンを買うことは無かった。現金なものである。
その後毎日のように通う店はビットインから変わったのはLAOXコンピュータ館であった。そこの3階か4階に角っこにヒッソリとあったLANのコーナーには毎日のように通い、当時まだ珍しかったLANの概念や配線のし方やソフトエアー等々を係員から根掘り葉掘り聞きまくって自前で社内LANを構築したりしたことがあった、
そして今LAOXは単なる中国観光者向けの家電屋になってしまって、私がたまに秋葉原に行っても駅にひっついているヨドバシカメラに直行し用事が済めばそのまま黄色い総武線に乗って帰宅するだけになってしまっているのだ。
その特別思い入れの秋葉原に月曜の早朝にでかけて行ったきり、未だ帰ってこない娘は何をしているのだろうか。
いやはや我が娘も親父と同じように秋葉原の廃人になってしまうのだろうか。
秋田で百姓の真似事をやっていた時に急に料理が作りたくなって日がな一日料理を作っていたことがあった。あれって今考えれば最高に幸福な一日だったのではないかと思われて懐かしい。
娘の学校はオタクのメッカである秋葉原にある。電気街口を降りたらたった3分の高層ビルのなかにある。あの場所は昔青果市場があってそこが移転して、しばらくの間空き地になっており、バスケットボールのコートが作られており、深夜まで若者が遊んでいたところでもあった。
私は神田で呑んでも御茶ノ水で呑んでも帰りはかならず秋葉原の駅まで歩いていってそこから黄色い総武線に乗って帰宅していた。
会社の最寄駅は御茶ノ水か神田のほうが近かったのだが、わざわざ秋葉原駅を使っていた。一日一回は秋葉原の街を通らないと気がすまなかったのであります。
今もラジオ会館ってあるのだろうか、そのラジオ会館の3階だか4階にNECのパソコン部隊の出先機関のようなビットインという店があり、何か目新しい情報はないだろうかと3日と開けずに通ったものである。でもそれはOSがMS-DOSの時代まででOSがWindowsになってしまってからはまったく通わなくなってしまったのだ。Windowsであれば別にNECのパソコンでなくても一向に構わないわけであり、それ以降NECのパソコンを買うことは無かった。現金なものである。
その後毎日のように通う店はビットインから変わったのはLAOXコンピュータ館であった。そこの3階か4階に角っこにヒッソリとあったLANのコーナーには毎日のように通い、当時まだ珍しかったLANの概念や配線のし方やソフトエアー等々を係員から根掘り葉掘り聞きまくって自前で社内LANを構築したりしたことがあった、
そして今LAOXは単なる中国観光者向けの家電屋になってしまって、私がたまに秋葉原に行っても駅にひっついているヨドバシカメラに直行し用事が済めばそのまま黄色い総武線に乗って帰宅するだけになってしまっているのだ。
その特別思い入れの秋葉原に月曜の早朝にでかけて行ったきり、未だ帰ってこない娘は何をしているのだろうか。
いやはや我が娘も親父と同じように秋葉原の廃人になってしまうのだろうか。
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