2015年4月5日日曜日

春は命の芽生えでもあるけれど

夕べの晩酌の酒がまだ少し残っているようで、すぐに仕事に入る気がしなかった。テレビのスイッチを入れてぼーっとしていたら、どこのチャンネルを回しても、みるべきものも見当たらず、VTRはどうだろうと切り替えてみたが、最近は録画する番組もぐんと減らしてあったから、ここにもみるべきものが見当たらなかった。うーん
見るべきものがないのに、テレビにへばりついているのは、かなり虚しいもので、仕方なくスイッチを切ってしまった。時計をみるとちょうど丑三つ時でありました。

昨年から今年にかけて、私のおじさん、おあさん関係がたてつづけに逝ってしまった。そのたびに自分の記憶のなかの懐かしく親しい顔ぶれが大きく欠落していく感じがして、悲しかったし、その喪失感も大きかった。
考えてみれば当然のことなんだが、自分が齢(よわい)を重ねるにしたがって、自分と関係した人々も伴に老いていくという現実を今さらながらに思い知らされます。

私は昔からおじさん、おばさんを相手に話をするのが好きで、おかげで親族のなかで自分達のルーツに一番詳しいのではないかと思われます。
特に3年ほど前に94歳で亡くなったヨシエさんとは、郷里に帰れば、時間を忘れて話を聞いたものであります。悪いことに実家の手前に彼女の自宅があり、ちょっとのつもりで、立ち寄ってそのまま夕食まで馳走になってしまい、「泊まっていけよ」とヨシエさんはいうのだが、実家までは歩いても5分ほどの距離なのでありました。

そういう相手がぽつりぽつりと姿を消していくのは、必然だとは理解しているけども、やはりそこはかとない寂寥感に襲われてしまいます。
ただ、私も旅立てば、向こうの世界には懐かしく優しい人々が笑顔で待っていてくれると思うと、なんとなく心がやすらぐ気がします。


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