すっかり秋めいてきました。いくら暑いのなんのっていったって、時がくれば心配することなく自然と涼しくなってくるものなのですね。
先日私の友人の父親が亡くなりました。やはり納棺士がやってきて丁寧に体を洗い清めてくれたそうです。そのやりようには感動すら覚えたといっておりました。また2日ほど前にも友人の独り身の伯母さんが亡くなられて、やはり納棺士がやってきて、それはそれは丁寧に洗い清め化粧をほどこして納棺を済ませてくれたそうであります。私たちもいちどはお世話にならなければいけないのでしょうね。
自分がいつのまにか老いてしまったことをある時突然に気づかされることってあるものです。常に年老いたことを意識しているわけではありませんし、決して老いることを望んでいたわけではありませんが、自分の意識と無関係に強制的に知らしめられることがあるものでして、それが度重なることによって自然とあきらめるということができるようでしょうね。このばあいは「あきらめる」ということよりも、自然の摂理をそのまま素直にに受け入れるためのこころの準備を整えるといったことでしょうか。
いつまでも父母には幸せで元気でいて欲しいと願ってはいるのですが、いつしか自分自身が老いていることに気づきはじめて父母の時代とともに自分達が生きてきた時代もいつしか終焉に向かっているように感じるようになってきました。まして周囲の知人の親御さんがつぎつぎに亡くなった話がおおく耳にはいってくるにつけてそう思わずにはいられない今日この頃であります。ただ救われるのは誰がきめたのかはわかりませんが、順番どおりだということであります。これが順番どおりでなく、自分よりもはるかに若い人が突然亡くなったばあいはこうはいきません。しばらくは立ち直れないほど落ち込んでしまいます。
と、いつにもまして愁傷なことを書いていますが、三つ子の魂百までの諺どおりにバカは相変わらずでありまして、そろそろおとなしくしなければとは思っているのですが、あいかわらずバカはなおらないようであります。
このように私のなかにはいつも相矛盾する気持ちが錯綜していて、齢をいくら重ねようとも、少しも大人になることができずに、結局三つ子の魂のまま消滅していくのでしょうね。
いったい私はどこからきて、どこへ去っていくのでしょうか。
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