2009年2月9日月曜日

読書の冬

 気がつけばもう午後3時過ぎですね。いつもは午前中にブログを書き始めるのですがついつい遅くなってしまいました。遅くなるとなんとなく書き損ねてしまうんですよね。だから何もネタが無いんですがとにかくなんでもいいから書いておくことにします。
 なんだか知らないけれど、いつの間にか未読の本が溜まってしまて朝から読書してます。ま、読めなければ読めないで積読にしてしまえばいいだけの話ですけれども。

ウォールデン 森の生活からの抜粋

もし、人が何のために生きるかをもう少し考えて生きるなら、誰もが本当の観察者になり、研究者になるでしょう。
人は楽しく生きようとする本性を持ち、楽しく生きることによって成長するよう、定められているからです。
ところが多くの人は財産を自分や自分の子孫のために蓄え、子供をたくさん持って大家族を作り、国をつくり、神のごとき名声を得ようと励みます。しかし、どう考えようと、人は神になれず、死すべきものに変わりはありません。
ところが、人は本当のことを知ろうとするなら、不死身になり、異変や偶然を怖がらずに生きることができます。

尾瀬の森を知る ナチュラリスト講座―知られざる南尾瀬の大自然からの抜粋

この地域が、いつごろ開かれたのかは定かでないのですが、北関東と東北を内陸部から進もうとすると、那須から白川関を越えるか、多少の険阻を覚悟して利根川を遡り、片品川から尾瀬を越え、只見から会津方面に抜けるしかありません。

尾瀬については、平清盛と美姫を争ったという公家、”尾瀬三郎”藤原房利の落人伝説が有名です。彼は、尾瀬沼にたどり着き、燧ヶ岳の火山洞窟を拠点として活動したともいいますが、尾瀬の冬の長さ、農地の少なさを考えれば、定住生活を思い描くことはほとんど不可能で、どうも信憑性には乏しいと思われます。

むしろ、片品村の伝承に残るように、東北北上川の有力豪族、阿部一族に連なる者たちが、前九年の役の後、アイヌとしての狩猟生活の下で、乏しい暮らしを続けていたということならば、まだしも説得性があります。

 興味深い説なのですが、「藤原房利は、尾瀬沼にたどり着き、燧ヶ岳の火山洞窟を拠点として活動した」というのは初耳です。尾瀬を抜けて新潟方面に辿り着こうとした説は知っていたのですが。その途中で死亡したと覚えておりました。

 また「アイヌとしての狩猟生活」とありますが、阿部一族は蝦夷(えみし)ではあるけども決してアイヌではないのであります。確かに当時東北地方にも極々少数のアイヌ民族は存在はしていましたが、圧倒的に北海道をホームグラウンドにしていたのであります。後の藤原3代に繋がる阿部一族はアイヌではないのであります。ただ最初の定住者は阿部一族に連なる者たちという説はおおいに納得できる部分ではあります。

 先日長男と藤原3代の力の源泉のひとつである金山というのはどのあたりにあったのだろうというと、長男はすかさずそれは佐渡の金山であったのではないかというのです。これにはかなりの違和感を覚えました。あのあたりまで奥州藤原の支配権が及んでいたとは到底思えないのであります。
 しかし尾瀬周辺であれば狩猟の民としては定住していてもそんなにおかしな話ではないのではないかと思われます。
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