こんな記事があった。「柏、松戸、流山、三郷のホットスポット」
関東の一部に放射線の強い場所があります。柏、松戸、流山、三郷の4市です。放射性物質は「県境」などは判りませんから、測定値に従って行動することが必要です.
洒落にならない。市川という文字が入ってないことで無理矢理ほっとするところがあるが、放射性物質は「県境」が判らないのなら「市境」だってわからなだろうってことだ。こういうのを「青天の霹靂」っていうんだね。
松戸、流山、三郷なんていうのは東京都金町浄水場および市川の取水口の上流もしくは同地点にあたるのだから、無事では済まないだろうと思う。汚泥汚染の情報は流されているけど水道水汚染の発表はまるでないですね。あってもどうしようもないけどね。
遠く離れた神奈川県南足柄市内の「足柄茶」の出荷自粛という事態にもなっているのだから、これからどんどんとこういう放射能汚染のニュースが流れてくるだろうと思う、しかも後出し小出しにね。
雨上がり後の植物はキラキラして美しい。特に新緑の5月のころは緑が萌えあがって命の逞しさを感じます。ついつい木々の艶姿に見惚れてしまいます。
お散歩カメラを持ち歩くようになってからは、周囲を一層注意深く観察するようになりました。以前の散歩は万歩計で最低1漫歩は歩かなくてはとか、この距離をスピードをつけてより早くなんてことばかり考えていましたが、今はのんびりと他所様の家の庭の草花をじっくり観察したり、カメラの設定をいろいろ変えて試したりと、その足取りは遅遅として進みません。
これまで掲載してきた自宅周辺の写真はウソといえばウソだと思います。そこには自分の気持ちに都合の悪いごちゃごちゃとした町並みや、使い古した生々しい日常の風景を極力排除しているからです。花草木を極端にクローズアップしてトリミングしてしまって集めれば、いかにも大自然のなかにいるような心地よさを感じます。
遠くへでかけるだけが旅ではないということ知ったような気がします。非日常を求めて旅にでますが、日常のなかにも非日常を現出させられるのではないかという思いに至っているのです。たとえ森の中に住めなくても想像という能力を駆使することによって森の中にも草原にもぽつりと独り住み続けることができるのではないかと思い始めています。
私を良く知る人はこの時期に自宅にいるのを訝しんで、「あれ?まだここにいるの」「どこへも出かけないの」と不思議そうに尋ねてくる。自分でも不思議なくらいに昨年までの放浪癖はなんだったんだろうと思えるぐらいに、内奥から突き上げてくるような旅にたいする情熱が消え失せていることを感じてしまう。もう私という人間は燃え尽きてしまったのだろうかと吾ながらいささか心配になってしまう。
雨が降っていない限りは、散歩にでて、この公園のベンチに座って思索することにしている。と書きたいところだが、思索なんてものはとてもできない。なにかについて考えようとしても心はちぢに乱れており、まったく関連性のない断片的な思いがランダムに現れては消えてゆく。それが、ひとつのテーマに絞ろうとすればするほど、それをあざ笑うかのように、まったく纏まらない。
そしてその結論はというと、「そろそろ昼だな、注:ライフに寄ってなにか食い物を買って帰ろう」という実に情けないものなのだ。
注:ライフ=近くのスーパーマーケット
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